それなりに終活もしています。何冊かあったアルバムは、プリンターのスキャナー機能でデジタル化して、古いアルバムは焼却しました。少年の頃の掲載された詩などが載った書籍については、ぼつぼつとデジタル保存を進めています。改めて興味ある方には、読んで欲しいという衝動に駆られました。少年の頃を含めてまずいものばかりですが、逐次、順不同で公開します。読んでみてください。

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 ある意味、何でもないと思える作品でも、嗚咽が止まらなくなることが多くなった。歳のせいかもしれない。
 鹿児島テレビが20年前に放映した「わが心の集団就職列車」という番組がYouTubeにアップされていたので、懐かしく視聴した。

 これは、1955年(昭和30年)の鹿児島駅発、中学生集団就職列車の記録である。私より4歳ほど上の世代の人たちだ。私たちの世代にも、中学校卒業と同時に就職する者が大勢いた。こうした集団就職列車に乗ったかどうかは知らないが、私の同級生の幾人かも、大阪や名古屋方面へ旅立っていった。

 私の父は小さな炭鉱で働いていた。5人弟妹の長男だった私は、中学を卒業したら就職し、働いて家族を支えるのが当然だと思っていた。

 ところが当時、日本育英会の奨学金は月額1000円だったが、幸いにも新設された月額3000円の制度を受けられることになり、大学に進学すれば奨学金は自動的に受けられるとのこと。確か月8000円だったとだ思う。
 それでも親は「進学などとんでもない」との態度だった。恩師が「せめて高校までは」と親を必死に説得してくれ、私はアルバイトが十分できる近くの高校へ進学した。これがなければ、私は関西のある大手企業の養成工になるため、このような列車に乗って関西へ旅立っていたのだろう。今では名前も思い出せなくなった中卒就職の同級生たちが、その後どうしているのか、今も心から離れない。

 中学卒業と同時に故郷を離れた者ばかりではない。

 当初は地元で働いていた青年たちもいた。しかし高度成長期のなかで、石炭は石油に取って代わられ、炭鉱は斜陽化していった。炭鉱で働いていた多くの青年たちも故郷を離れ、列車に乗って「都会」へ向かった。筑豊(福岡県の炭鉱地帯)の幾人かの従兄妹(いとこ)もそうだった。そうした遠い日の思い出が、昨日のことのようによみがえる。埼玉や大阪に職を求めた従兄妹たちのうち、5人はすでにあの世へ旅立った。就職列車で故郷を離れ、その後まったく会うことのなかった同級生たちは、今、どうしているのだろう。
 そんな感慨にふけっていると、パソコンの画面は「その後、彼らはどう生きてきたのか」という現在の取材へと移り、そのなかで同窓会の様子が紹介された。彼らは生まれ故郷ではなく、就職した土地で交友を温め続けているという。そして二人の女性が紹介された。
 「ここに来ると、必ず歌う歌があるんです」 そう言って、歌い始めた。

♪ 泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して 故郷を捨てた かいがない
 

 もう、涙が止まらなかった。中学校卒業とともに故郷を離れ、大阪や東京で就職し、結婚し、子どもを育て、そこを故郷として生きてきた人たちの思いは、いかばかりだったろう。


 私が生まれ故郷で暮らしたのは2歳までだった。あとは炭鉱の閉山のたびに、山口県の宇部、福岡県の小倉、そして再び宇部へと移り住んだ。高校卒業後は就職し下関で暮らした。強烈に「ここが故郷だ」と思える場所など、本来ないはずなのに、この歌を聴いていると涙があふれてくる。

 

 歌の一節くらいは知っていたが、これは昭和12年(1937年)に古賀政男が作曲した「人生の並木道」という歌だそうだ。
戦前、貧しさゆえに故郷を離れ、開拓団などとして中国大陸へ渡った人々の心情を歌ったものではないだろうか。