最近、世間では書籍のトリセツが流行っている。
トリセツとは取扱説明書の略語である。
夫のトリセツ、妻のトリセツ、娘のトリセツ、家族のトリセツ、男のトリセツ、息子のトリセツなどなど。ざっと調べただけでも幾つも出てくる。
ここ最近の日本人の人間関係力の低下を反映していると言えば言い過ぎだろうか?
一方、出版業界の戦略と知恵も感じる。
流石、すぐにいけるネタを見つけてブームを作る。
ただ、このトリセツブームは、ちょっとやりすぎではないだろうか?
この取説を読んで、人間関係が本当に良好になるとは思えない。
なぜなら、人間は商品ではないので、取説で扱えるものではない。
人間関係というのは、理屈では分かっていても、どうにもならない部分が多々ある。
人間関係には、本能や情動の部分が相当なウェイトで関係しているからだと思う。
シニアのトリセツはズバリの本はないようだが、近い本はすでに幾つか存在する。
私は、拙著”もし波平が77歳だったら”を発刊して以来、シニアが主役のテーマでシニア関係の本を幾つか手掛けてきた。
そのなかで、“シニアのトリセツ”的な本を発刊しようと考えていた時がある。
4年ほど前の事だ。
その頃は、西野カナの“トリセツ”をシニアセミナーで良く紹介していた。
男女関係の中での彼女の取り扱いについての、軽快なテンポでかつユニークな歌だ。シニアの方にもこの感じが受けが良かった。
私もなんとなく気に入って、何度も聴いている。聴けば聴くほど、歌に登場する彼女の要望は、現実にはあり得ないと思える。
歌の世界だから、成り立つ話であり、現実社会では難しい。
この歌の評論はさておき、
実は、私は、最近、シニアに対しての考えが変わってきた、というか進化してきた。
最近の日本は高齢化社会の話題で持ちきりだ。
高度経済成長期には、若い世代が中心のピラミッド構造だったのが、逆三角形に近づいている。世の中の1/3が65歳以上のシニアになる日は近い。
こんな急激な変化の中、シニアとのコミュニケーションは難しい。と大抵の人が思っているのではと推察する。
そういう私も、5年前に、拙著“もし波平が77歳だったら”を上梓するまでは、そういう人の一人だったと思う。
今、確信していることは、
そもそも、シニアのことをシニア以外の人はほとんど理解していない。
シニアにならないとシニアの気持ちは分からないのかもしれない。
しかも、急速に寿命も延びて80代、90代でも元気な方がどんどん増えている。
昔ならほとんど存在しなかった年齢層だ。この年齢との接し方は誰にとっても未体験ゾーンで、もっと分からない。
昔であれば、おじいちゃん、おばあちゃんとの同居で子供は成長した。
少なくとも10年、20年はシニアと生活を共にしていたのである。
私もそういう経験をした1人だ。
こういう時代にはトリセツも何もないと思う。
子供の時の生活体験が一生ベースとなる。
シニアへのケアやいたわりの気持ちも身につくだろうし、接し方も学ぶ。
お年寄りをいたわる気持ちが自然と身につくことの意味は大きい。
全ての人間に対しての対応力が自然と養われる。
そして、子供の時からおじいちゃん、おばあちゃんとの別れも直接的に体験する機会もあった。命の尊さと命に終わりがあることを必然的に学ぶ。
時代は変わって、おじいちゃん、おばあちゃんと会うのはお盆や正月の里帰りの時だけと言う子供が一気に増えた。
冒頭のようなトリセツが流行る根底には、シニアとのかかわりだけでなく、人間と人間の直接のコミュニケーション力が低下していることがあるのは間違いない。
だから、学びの手段としてこういう類のトリセツ本が流行る。しかし本質は違うと思っている。やはり、こういう本での学びは付け焼刃だ。
人間のコミュニケーション力の低下については、デジタル社会の弊害が間違いなく根底にある。
このあたりは別のブログでも色々と書いて来たので割愛する。
シニアはデジタルとは対極の超アナログの世界だ。今の子供達に限らず、デジタル社会で生きている人達にとっては、アナログ世代と付き合うことが大変なのだ。
私が今、本を書くとしたら、
デジタル時代の人間のトリセツだ。
面と向かって話出来ないことで、生まれる弊害や悪影響についてが骨子になる。
今のデジタル世代も年齢を重ねると間違いなくアナログ派になっていく。
若いうちでも気分転換にアナログを求めることもある。
IT活用時代だからこそ、アナログを活かす力が重要だ。
また、ITツールにはメリットとリスクがある。
特に、このリスクに対する知識と対策するスキルを身に付けることも大切となる。
以上