被虐待者のレポート。

 

「母親(あるいは代理母親)との暖い持続的関係が、健全なパーソナリティの発達に不可欠である」 『ボウルビイ 母子関係入門』

 

愛着関係について考えさせられました。愛着関係とは親などとの関わりの中で親を信頼し安全な拠点として外の世界に関心を向けるために発達上必要な関係だそうです。

 

思えば私の母親は自慢じゃないですが安全な拠点そのものでした。私に常に関心を向け、私の話をたくさん聞いて、たくさん共感してくれました。

 

本当に親ばかというなら、子ばかもあるのでしょうか、私は自分の母が母親百点満点誰にも負けない母親だと信じています。自分が母親になっても母ほど立派な母親はできない。

 

本書で「心は親からの「共感」で発達していく」とありますが、ふりかえれば共感してもらいたくて仕方ない人生でした。小さいことは見えたものをすべて指さして親に「みてみて」してたし、今でも珍しいものを見つけると「見て見て!!」とやってしまいます。

 

テストでいい点をとったときは、点数自体よりもきっと母がとても喜んでくれるだろうなというワクワクで最高な気分で家に帰りました。ちょうど1年前もCBTで学年1位をとって鼻をふくらませて親の反応が楽しみすぎて興奮気味に帰省しました。いつまでもかわらないんですね。

 

母はリアクションの天才で、私が求めているリアクションをくれます。小さい頃は私がいいことしたから母も嬉しいんだ、と単純に考えていましたが年をとると母が私のために私が求めている反応をしてくれていたのかなと考えるようになりました。

 

母が喜んでくれる、ますます勉強する、ますます部活を頑張る、、この循環で努力すること、努力する意味を学んできました。高校の頃なんかはいい高校に合格して調子にのっていたので自分は天才と勘違いしがちでしたが、、そんなことは当然なくて、母の影響が大きかったのではと本書を読んで思いました。母が私に無関心だったら私には努力する意味が見つけられなかっただろうし、努力する方法もしらないままだったと思います。

 

努力は才能、とよく言いますが(実際私もこの本を読むまで信じて自分は努力の才能があってよかったーーなどとほざいていましたが)、実際は環境が大きいのだと痛感しました。やはり私は才能の人間ではなかった。むしろ、こんなだめ人間を、うまく調子付けて人並みに努力させた母には才能があります。。。

 

 

 

また、親とのこんな愛着関係がある以上、親の愛着関係を基盤にものを捉えてしまうことから逃れられない、、というのは当たり前なようで実は大事なことだと思いました。

 

私は前述のとおり家庭環境に恵まれていてとても仲いい家族なのですが、この環境とここから出発した私のものの考え方とか社会性は、私の家庭環境と異なる特殊な家庭に対する見方を歪ませてしまうかもしれない。

 

家族はこういうもの、親はこういうものと、知らない間に自分の中で家族のあるべき姿、信じたい家族像ができあがっていたことに気づかされました。そして、他の家庭について思考をめぐらすとき、私はその家族像を基盤に思考することを逃れられない。その姿勢は、虐待を考える上で実態を理解することを障害するでしょう。。親の愛着関係をもってしまった者が完全にもっていない人を理解することはできない。

 

 

いずれ私は何科を選ぶかわからないし医者にすらなってないかもしれないけれど、いろんな背景の人と触れる仕事につくならこの本の内容も心にとめておきたいと思う。