立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答

立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答

立花涼氏が2003年4月に内藤湖南研究会に提出された公開質問に対して、同年7月に同研究会の会員である山田伸吾が作成した私的な回答である。

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立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答(はじめに)

・・・・「いつか来た道」・・・批判的主体の位置

                            山田 伸吾

はじめに


 立花氏の「公開質問」を読んで、まずは丹念に『内藤湖南の世界』を読まれたことに対して感謝の意を表す必要はあるだろう。しかし、氏の場合はまず「批判」が前提にあり、批判するためにのみその丹念さが発揮されている所に何かしらじっとりとした怨念を看取せざるをえないわけだが、その怨念の由来する所は定かではないにしろ、こうした怨念に向き合うことが結構好きな私にとってこの『公開質問』に触れることが一種の興奮をかき立てたことも事実であった。ただ、氏の批判に対してはそのほとんどが承服できないものであると同時に、「この道はいつか来た道」という唱歌と同様の既視感を覚えざるをえなかった。何度も繰り返し味わってきた政治的批判の在り方、論証抜きで自己の絶対的「正しさ」を前提にした粗雑な批判の在り方のあまりにあからさまな展開をこの『公開質問』の中に見て、いささかげんなりとしたのも事実である。この『公開質問』に注がれた立花氏のエネルギーを想像するにつけても「壮大なクソ」としか言いようがない。久しぶりに、低次元な政治的言語に触れて、唖然としつつも「戦後」日本の生み出してきたある種の思想的醜悪さ、というよりも思想的幼児性をここに見い出さざるを得なかったのである。立花氏の「質問」とは、質問と言うよりも湖南の否定であり、湖南を扱うことに対する拒否にほかならず、しかも政治主義的な誹謗中傷の類に他ならず、正直言って反論に値する内容を備えてはいない、と断言せざるを得ない。しかし、研究会としての対応はともかく、個人的に立花氏を知る私としては「無視はできない」という個人的事情から消極的ながら『公開質問』に対して、私的に回答することにする。但し、この内容は「私信」ではあるが「公開」を拒否するものではない。

 もとより『公開質問』の「公開」の意味が判然としない。公開の場での討論を望んだところ立花氏は拒否されたようだが、そうであれば『公開質問』の「公開」とは何だったのだろうかと疑問に思わざるをえない。立花氏は、ある意味では「公開の場」で私たちの研究会に対してけんかを売ったわけなのだから、それに「公開の場」で答える義務があるはずである。

 しかし、「公開」だろうが「非公開」だろうが『内藤湖南の世界』への批判には、それがどのようにつまらないものであれ、ある程度答えていく義理が私にはないわけではない。「げんなり」としつつもあえて筆を執ることにする。




立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答(その1)

    ・・・・「いつか来た道」・・・批判的主体の位置

                            山田 伸吾



1、立花氏の批判的位置とは何か ・・・タイムマシンに乗った立花氏



 先ず「公開質問」の批判的視座に関する基本的な問題を述べておこう。「第6章 最後に」で次のように述べられている。

 増淵龍夫の優れた所説を曲解し、子安氏のラディカルな批判を無視し、「文化的ナショナリスト」内藤虎次郎を再度、称揚することは、内藤の言説の持つ「犯罪」性を隠蔽し、近代の学問が「日本帝国主義」の歩みと歩みを一にして来た問題に目を瞑ることではないだろうか。もし、「私たちが日本近代の学問の源流をたずね」るのなら、それは谷川氏の主張するような方向ではなく、近代の学問が近代日本において果たしてきた役割、植民地主義・皇民化政策と一体になって犯してきた「罪」と「責任」をこそ、<今>問うべきではないだろうか。少なくとも帝国日本においてどのように学問が成立し、そのことで何を隠蔽して来たか、についての考察は学問に携わる者にとって不可避の課題なのではなかろうか。 

 書き写すことさえいささか気恥ずかしいような大風呂敷が展開されているわけだが、ここに表現されている言辞に『公開質問』全体に通ずる湖南批判、『内藤湖南の世界』への批判の骨格が表現されている。増淵龍夫は確かに湖南批判の中では一番良質のものと考えるが、谷川氏がそれを曲解しているとは思わないし、子安氏の湖南批判は少しもラディカルなものではないし、湖南を「文化ナショナリスト」と簡単に片づけることはできないし、ましてやその言説に「犯罪」性があるなどとは到底思えないし、などという些末な茶々を入れることは差し控えたいが、問題は、立花氏の立脚している批判の視座そのものの「質」である。

 この『公開質問』全体を貫き、先の引用に象徴されている批判の論理とは、単純化すれば次のようになる。近代日本は「侵略戦争」「植民地主義」「皇民化政策」という「反正義」に帰結し、近代日本の学問・思想は、この「反正義」に積極的に加担した、もしくは「反正義」の動きを阻止しなかったことによって消極的に加担した、という点で「正義」の立場から徹底的に断罪しなければならない。湖南のような「侵略戦争」への「加担者」を今日において評価するなどということはもってのほかである、ということになるのだろう。しかし、この批判的視座とは、その仕組みから考えれば、「戦後的」な「正義」をそのまま「戦前」に持ち込んだ、ある意味では「タイムマシン」的な批判の立場といわなければならない。その意味で無意味であり、反論することさえ意味を奪われるものと言ってよい。

 この批判が終戦直後になされたのであれば、戦後の新しい学問・思想の出発点の確認としてそれなりの意味はあったのかも知れない。野原四郎氏の湖南批判は、湖南を正確に理解した上での批判ではなかったという点ではあまり価値のある批判ではなかったが、野原氏自身が戦後史学の方向を自己確認したものとしては、それなりに了解ができる。

 また、こうした「侵略戦争の断罪」がまさしく湖南の生きていた時代、つまり「侵略戦争」のさなかになされたのであれば高く評価しなければならなかったのかも知れない。あるいはまた、今日ただいまの「アフガニスタン」や「イラク」、「パレスチナ」問題に向けてこの反「侵略戦争」のスローガンが掲げられたのであれば、それはそれなりに意味があったことだろう。しかるに、ここで立花氏が行っていることは、「侵略戦争はいけない」「植民地はいけない」「皇民化政策はいけない」という戦後的価値に立脚した戦後的「正義」の場から、「侵略戦争」「植民地政策」の時代に生きていた人々を断罪するという行為であり、ちょうど近代の「平等」という価値観から、江戸時代の思想家を身分社会を肯定する差別主義者として批判するのと同じで、無意味としかいいようがない。

 私は、帝国主義戦争の時代に、「侵略」を「アジアの解放」と考えて戦争に加担していった皇国少年も皇国青年も皇国中年も「犯罪者」として裁くつもりはない。関東軍の中枢にいた「侵略主義者」たちもそのこと自体では「犯罪者」として裁くつもりもない。その時代に「自由主義者」を「非国民」として告発した「隣組組長」や「憲兵」をも「犯罪者」とは見なさない。それらの人々が「侵略」が「正義」と見なされた時代の中でその「正義」を信奉し、その実現に向けて進んでいったこと自体を、私は「犯罪」を犯したとはさらさら思わないし、現在の「正義」からそれらの行為を裁こうなどとも思わない。というのも、私自身「侵略」の時代に生きていたとしたらどのように身を処したのか何の保証もできないからである。確かなことは、反「侵略」、反「植民地」、反「皇民化政策」などの立場からその時代の「侵略戦争」の「正義」と向き合うなどということはできなかっただろうということだけである。

 立花氏はしきりにこの当時の「侵略戦争」の「加担者」を犯罪者として断罪しているが、いかに過激にそれをなそうが、そのことによって、立花氏自身がその当時にあって「犯罪者」になり得なかったという保証とはならないということを知るべきである。問題は、戦争か「反」戦争か、侵略か「反」侵略か、「正義」か「反正義」かということではなく、時代や社会状況が私たちに強いてくる、いや、時代や社会状況の中に生きていることで知らず知らずの間に私たち自身の中に刷り込まれてしまっているような価値観や世界観と距離を置いてどう向き合えるのか、つまりは自己自身を作りあげてきた時代や社会の価値観を自覚的に取り出せるかどうか、対象化できるかどうかということをまさしく自己の「現在」の問題として設定することであって、自己の立脚する「現在」の価値的な場に無自覚のまま「過去」を断罪するなどということでは決してない。立花氏は、M・フーコーの著作を援用しつつ(引き合いに出しているだけで、フーコーの思想的営為の意味については全く理解していないように思われる)「知」がいかに「時代」や「時代」の「権力」(この権力は政治権力よりもはるかに広い概念として使われている)に規定されていたかを言い立てているが、まさしくM・フーコーの作業こそが、自己の立脚する「現在」の価値的な場についての自覚、対象化という作業であったというべきである。フーコーは、「近代」という自分を育んだ「知」の形態をできうるかぎり「客観化」「対象化」しようとしたのであり、その意味では「自己」対象化・客観化を果たそうとしたと言えるだろう。自分が何に拘束されているのかを自覚的に取り出そうとしたのであるが、その作業が容易なことではないということを彼の著作は示しているように思われる。もちろん、私はフーコーの正確な読者ではない。むしろ不理解者といってよい。しかし、少なくとも次のようには言える。フーコーは「近代の知」の拘束された全体像あるいはその中に貫かれている錯綜した「権力」の視線を明らかにしようとしたが、そうした被拘束性、「近代の知」が限定された条件の中に置かれていること自体を「犯罪」として告発したわけでないし、また、フーコーであれば「近代」の立場に立って「前近代」を断罪するなどということはしなかったであろう、と。

 「戦後的な価値観」もそう単純化して捉えることができるわけではないが、私たち自身がどうしようもなく「戦後的な価値意識」に拘束され、そこから自由になるということがそれほど容易なことではないということを自覚せざるをえないのだが、まさしくそうした困難さを自覚すればこそ、異なった時代の異なった価値意識に拘束されていたと思われる人々の思想や行動を、現在の価値意識から判断して批判するなどということは、少なくとも歴史を考えていこうとしている立場にあるものとしては厳しく自戒されねばならない姿勢に他ならないだろう。

 日本の「近代の学問」が日本の近代国家形成と時を同じくし、天皇制ファシズムの時期をも通過せざるを得なかったことは、確かに「目を瞑ること」ではないだろう。そして「近代の学問が近代日本で果たしてきた役割」も当然想定していい。ここまでは文句のつけようのない事実といってよい。だが、「植民地主義・皇民化政策と一体となって犯してきた『罪』と『責任』」という指摘については、正直言って何が言いたいのか判然としない。近代日本が帝国主義的「侵略」を行い東アジアにおいて植民地を形成し、しかもそこにおいて「皇民化政策」という植民地経営としてはきわめて稚拙な方針で望んだこと、そしてこうした近代日本の歴史過程について、敗戦後アジア近隣諸国から反撥と批判が提起され、そこに「侵略」についての「罪」と「責任」が、敗戦後の日本の引き受けなければならない課題として生じたことも確かである。しかし、この「侵略」戦争についての「罪」と「責任」とはあくまでも戦後日本社会の引き受けていかなければならない問題であって、こうした「戦後的意識」「戦後的価値観」に立って「戦前」のあり方を断罪するなどということとは全く別の次元に属する問題である。

 そもそも近代日本の「侵略」戦争、植民地政策についての「罪」と「責任」などという「裁判官的」批判視座がどこに成立するのであろうか。何に立脚しているのであろうか。これは、単純明快に「戦争はいけない」「侵略はいけない」「植民地はいけない」「差別はいけない」「文化の強制はいけない」などというある意味ではあらがいがたい「今日的な」という条件付きの「絶対正義」の立場・視座に立っている、と見なしてよいだろう。「絶対正義」の「絶対正義」たる所以は、いかなる人間もあらがいがたい「理念的正義」であり、それを現実化するための実践が難しい分、その内容についての細かな検証を経ないままより美しい理念として信奉されてしまうという点にある。今現在の世界においてさえこの「絶対正義」は相変わらず信奉されてはいるものの、その「実現」は遠い彼方にあると言えるだろう。その意味では「現在」をすら超越した「正義」なのである。

 このような「絶対正義」の場に、立花氏はどうして易々と身をすり寄せてしまうのであろうか。このような「絶対正義」の位置からは、あらゆる歴史的存在は「反正義」として断罪されるのだが、現在に生きているものも含めたあらゆる歴史的存在を断罪できるのと引き替えに、断罪を行う批判的主体も実質的には消滅する。批判とは、批判した内容については「自分自身」が引き受けており、同じ批判が自分に向けられた時には、それに十二分に答えうるという構造においてしか責任ある批判はあり得ないのだが、立花氏が、この「絶対正義」を引き受け、それを自ら担っていこうとしているなどとは到底思えない。というのも、こうした「正義」を引き受けていくためには、まず「断罪」などという裁きの位置に立つことなく、近代日本の歩みがどうして「侵略」戦争に行き着いたのかという要因を客観的に分析することが必要なのであり、その分析に立脚した上で、国家とか民族という共同体的幻想から生み出される価値意識・価値観とどう向き合っていくべきかという「現在的課題」に答えていくことこそ必要なのである。立花氏は、自己の立脚する「正義」の場の自己検証を行い、自己の立脚する「正義」がいかに現在という時代の内部に組み込まれた価値意識と連動し、その「絶対正義」と見えたものもまた時代的制約を帯びた今日の見えざる「権力」と連動したものであることをえぐり出し、その場から「現在」を批判するという作業を行っていくことが必要なのであり、戦前には「侵略主義者」とそれに同調する「文化人」がいっぱいいたなどと言うような「悪人」探しに狂奔する暇などないはずなのだ。そうしないかぎり、次のような揶揄も成立するだろう。「正義の味方」立花氏がもし仮に侵略戦争を「正義の戦争」と考えていた時代に生きていたならば、この「戦争の正義」を振りかざして恋愛にうつつを抜かす若者たちを「非国民、非国民」と告発してまわる嫌らしい「隣組組長」と同じ在り方をしたであろう、と。発想の構造、批判の構造が同一なのである。

 それに、アジア世界に対する「侵略」戦争についての「罪」と「責任」を戦後日本社会が背負わねばならないということを認めたからといって、そのことがそのまま「近代の日本の学問」が「植民地主義・皇民化政策」と「一体」となっていたなどという指摘を承認することにはならないし、仮に「戦前」の「日本の近代の学問」の中に「植民地主義・皇民化政策」につながる部分があったとしてもそのこと自体は何ら「罪」ではない。そもそも、「植民地」があり、国が「皇民化政策」を採っていたとき、それらと全く無関係に学問や思想があったとしたら、それこそおかしなことといわねばならない。「侵略戦争」「植民地」政策や「皇民化政策」を生みだした日本のナショナリズムと「日本の近代の学問」が深部に置いて繋がっていたであろうことは推測に難くない。確かにそのことは、「罪」などという断罪的な立場からではなくきちんと検証していく必要はあるだろう。しかし、それは、「正義」の立場からの断罪とは異なり、そう容易な作業ではない。「日本の近代の学問」の歴史的な条件を明らかにし、その歴史的条件が学問の内容にどれだけ限定性を与えていたのかを検証していく作業に他ならないのだが、その作業は「現在」の歴史的条件の問題、つまり自己検証という問題にも必然的に行き着くのであり、それこそ「近代の学問」を捉え返していく大きな学問的課題となるだろう。私たちの「湖南」研究も実のところこうした意味合いの基に始められたのであるが、「日暮れて、道遠し」と言わざるをえない。戦後の学問が、湖南のような存在を「侵略戦争の加担者」という政治的なレッテルを貼ってその成果をまっとうには検証してこなかったということも「日暮れて、道遠し」の一因でもある。日本の「近代の学問」は湖南の例からもわかるとおり、「侵略戦争への加担」などというレッテルを貼ってすましてしまうわけにはいかない奥行きと深さを備えていたのであり、そのようなレッテル張りと断罪は、実のところ「近代の学問」の成果と向き合うことを回避する怠惰に由来するとしか言いようがない。

 「近代の学問が近代日本で果たしてきた役割」は確かにあると思うのだが、その役割とはすぐさま「罪」などという形で断罪すべきものではない。そもそも「植民地主義・皇民化政策と一体となって犯してきた『罪』」とは具体的には何を指すのだろうか。この場合の「一体」とはどういうことを指すのだろうか。私自身の『内藤湖南の世界』所収の拙文に関していえば、湖南の「辛亥革命論」においても、満州への関わり方においても彼の考え方と所論が「植民地主義」とも「皇民化政策」とも一線を画するものであったことを湖南の論説に即して論じてきたつもりである。彼の中国社会論にも、満州国との関わりの中にも「植民地主義・皇民化政策」と「一体」となったことなどなかったことを当時の歴史状況と搦めながら論じてきたつもりである。もちろんその証明が不十分だという指摘に対しては謙虚に受けとめなければならないのだが、立花氏の批判は、大枠では、後に批判的に検討することになる「客観的に果たした役割」という政治的言語による批判であり、それを除けば湖南が中国民族や朝鮮民族を蔑視していたというような彼の個人的な性情をあげつらっているだけで、湖南の理論それ自体への検討は存在していない。私自身は、湖南が中国民族や朝鮮民族を蔑視していたとは思わないし、立花氏のこうした指摘についての反論も展開するつもりであるが、たとえ湖南の性情の中にそうした民族差別的感覚が存在したとしても、それが湖南の中国社会論、中国歴史論、あるいは朝鮮社会論、朝鮮歴史論にどのように影響を与え、どのようにゆがんだ像を作り上げてしまっているのかを立花氏自身が証明しないかぎり、立花氏の批判は、実話週刊誌と同次元の単なる湖南への個人攻撃に過ぎなくなってしまう。

 近代日本が「植民地」を所有し、そうした植民地統治の政策として「皇民化」政策を採っていたことは歴史的な事実であり、それが敗戦後、アジア諸国民から反発と批判にさらされてきたことも確かなことであり、そうした批判に対してどう向き合うことができるのかが今日においてもなお政治的なだけではなく思想的な課題の一つであることは事実ではあるのだが、かといってこうした戦後的な視座から、戦前の学問・思想の在り方を詳細な検討抜きに十把一絡げに「植民地主義・皇民化政策」と「一体」していたと短絡させたり、ましてや「犯罪」として糾弾することが「今」を生きる私たちの課題であるとは思わない。

 そもそもが「日本の近代の学問」が様々な国家政策と「一体化」していたなどとは思えないし、さらにいえば「一体化」していたことではなく、むしろ本当の意味では「一体化」できていなかったことこそが糾弾さるべき問題であると私は考えている。私は、野原四郎氏のような戦前の学問に対するイデオロギー批判よりも、この『公開質問』の引用箇所で「いつわりをかたりつづけたまま死んだ」と批判されている竹内好氏の、帝国主義戦争の時代にその戦争をイデオロギー的に主導できなかった思想・学問は、革命をも、平和をも自らの力で生み出すこともない、という指摘の方にはるかに重い問題提起を見る。もっとも、こんなことを言うと、湖南の朝鮮半島に対する「移民政策」や「同化」を推賞する部分を捉えて「ショアー」だと考えてしまう杜撰な思考(明らかにヒトラーのユダヤ人への向き合い方とは異なるし、民力の弱さの指摘が、民族の抹殺と同義と見なされるわけではない)の持ち主からは、「侵略の肯定」と見なされ「犯罪者」に祭り上げられてしまうのだろうが、思想や学問の課題として、目の前の現実と向き合い、それに言葉を与え、さらにその現実を思想や学問の力で一歩でも二歩でも動かすことが挙げられるのであれば、侵略戦争の時代にあっては侵略という事態を主体化し、思想化することが思想や学問の大きな課題であったことは確かである。もちろん「反侵略」の思想を立ち上げることも課題ではあったのだろうが、「侵略」の思想が本当の意味では成立していなかったことと対応して、「反侵略」の思想も有効な形では不成立であったようだ。いずれにせよ、繰り返しになるが帝国主義戦争の時代に、一人の国民が帝国主義的侵略を「アジアの解放」と考えて侵略に加担していったこと自体は「犯罪」とは見なしえない。むろん、戦後においてかつての皇国主義者が、実は反戦思想を持っていたなどという嘘を付くことは軽蔑に値するし、一夜にして反戦平和主義者に豹変する在り方は批判してよい。しかし、それすらも「犯罪」を構成するわけではない。










立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答(その2)

・・・・「いつか来た道」・・・批判的主体の位置

                             山田 伸吾



2、いつか来た道・・・政治的批判のむなしさ



 戦後初期において、例えば野原四郎氏のように「新しい歴史学の出発点」を確認するために戦前の湖南のような旧世代の碩学をばっさりと帝国主義の侵略的イデオロギーの所有者として批判しようとした気持ちは理解できるのだが、「新しさ」を強調するあまり、あまりに対象を単純化しすぎたように思われる。思想や学問と政治との関係をあまりに短絡的に接合しすぎた嫌いがある。というより野原氏の批判の在り方こそ戦前にもまして「政治主義」的であったというべきである。

 もとより思想や学問が国家的政治行動に「加担」するとはどういうことなのか。この点について立花氏は極めて単純に、帝国主義的侵略の時代にはすべての学問は侵略に反対しなかった、あるいは侵略を粉飾したという罪によって断罪せらるべきものとしてしか捉えられていないのだが、ことはそう単純ではない。戦後50年以上立った今日の「平和と民主主義の時代」においてさえこうした時代性に還元できない思想や学問があまたあり、同じく民主主義を標榜する人々の間にも様々な対立があるように、思想や学問をその時代の政治体制に還元して理解するなどということはあまりにも粗雑な政治主義的な立場である。もちろん立花氏に「政治主義的な立場」と批判しても無意味であることは確かであろう。立花氏には「帝国主義的侵略」の時代の学問と思想を、帝国主義的侵略に荷担した程度に応じてその「犯罪性」を「正義の立場」から断罪するという「政治的意図」しかないのだから、「政治主義的立場」と規定されても「その通り」といささかも動ずる必要はないのだろう。しかし、こうした「政治主義的立場」のあほくささはきちんと指摘しておかなければならない。

 『公開質問』には次のように書かれてある。

 日本が中国大陸で犯したこと、日本人が中国人に対して犯して来たこと、これらを痛切に受けとめるならば、内藤の言説は「真意」などによって再評価されるべきものではなく、今こそ、<犯罪的行為>として追求さるべきものであるのは、火を見るより明らかなのである。(p7)

 ここに表明されている論理を、『公開質問』全体の論調と関連させながら私なりに言い換えてみると次のようになる。湖南の「真意」=主観的な意図がどうであれ、当時の日本の中国侵略という犯罪行為を犯しつつあった状況の中では、湖南の言説がその犯罪行為を肯定した、あるいは否定しなかったという意味で、客観的には犯罪行為として弾劾すべきである、ということになる。

 ここでの「真意」はどうであれ結果的には(客観的には)という語り口に奇妙な懐かしさを覚えたのは、この語り口こそまさしく私にとっては「この道はいつか来た道」であったからだ。三十数年前にも私はこうした論理で何度も批判されてきたことを、懐かしさと共にある種の嫌悪感を伴って思い出してしまったのである。学生時代に私(たち)は、ある政治セクトから「君たちトロツキストは、主観的には反帝国主義闘争をやっていると考えているが、私たち真の労働者の代表・前衛である民主勢力に敵対することで、客観的には帝国主義(アメリカ帝国主義)の走狗となっている」などと批判されたものである。もちろん私(たち)は、「君たち民主勢力と僭称している勢力は、主観的には労働者階級の味方・代表・前衛と考えているのだろうが、常に闘争の突出を抑圧し、革命闘争を回避し、そのことによって客観的には労働者階級を裏切り続けていることは火を見るより明らかである」と反論したのであるが、この種の論争の空しさは当時にあっても私自身は実感しまくっていた。いずれに「真」があるのかは、この論理からは解明不能であるということを了解した上で、言葉の上での切り返しをやっていただけなのだが、自己の正しさを「信仰」する集団にとっては、敵を批判し、自分たちの結束を固めるためにはそれなりの政治的効用を発揮したようである。

 空しさは、結局かみ合うことのない論の立て方であるということである。双方が想定する「客観」がはじめから異なっているのであり、その異なりを前提にした上で、何が想定すべき「客観」であるのかを議論の俎上に載せる必要があるのだが、双方が自分の「客観」つまりは「主観的客観」の相対的正しさを証明することなく、議論の前提にしてしまっている点でかみ合わないのである。こうした言葉を、私は「政治的言語」と呼びたい。「政治的言語」の世界では、何が「真」かではなく、自分の「正しさ」=「客観」を前提にして、自分と異なっている考え方=自分とは異なった「客観」を設定をする立場を、すべて敵と見なし、しかもその場合の敵とは、議論する対象ではなく、粉砕する対象でしかないのである。ある文学者の言葉を借りれば「ヤツは敵だ、敵を殺せ」の論理がまかり通る世界なのである。私は、「政治的言語」の世界はあまり好まないが、「政治世界」そのものにはそれなりの好奇心があり、「敵の敵は味方」などという論理の貫く生の政治世界を否定はしない。しかし、「敵」「味方」などという腑分けとは関わりなく、「主観的客観」の精度をほんのわずか高めようとしのぎを削る思想や学問の世界に、立花氏のように無自覚に「政治的言語」を持ち込むことは断固拒絶しなければならないと考えている。

 こうした「政治的言語」が意味を持つ場もあり得るだろう。明確に共通の敵が設定でき、しかもその敵をめぐる「主観的客観」の捉え方が近似的であり、ともかくも多数派を形成した方が勝ちというような政治的党派の内部争いにおいては「政治的言語」はそれなりに有効だろう。しかし、同時代においてさえ限定された有効性しか持ち得ないこうした「政治的言語」を、立花氏は、あろうことか歴史の場に持ち込むのである。

 「内藤湖南の言説の持つ『犯罪』性」などという指摘は、一体どこからやってくるのか。はっきりしていることは、繰り返しになるが、こうした指摘をする場が、現在という時点において成立しているものであり、第二次大戦中の日本の行動、とりわけアジア社会に対して行った行動を「侵略」=「悪行」=「犯罪」と指弾する「戦後的価値意識」の一つに立脚したものにほかならないということである。「戦後的価値意識」を「正義」=正しい「主観的客観」として絶対化した地点から、内藤湖南の生きた時代を「犯罪」の時代として糾弾し、湖南をも「犯罪」への加担者として断罪する、さらには現在という時点で湖南の研究成果を評価する輩を、同じ罪状で断罪する、これが立花氏の基本的視座である。それによって何を証明するのかといえば、立花氏の立脚する「正義」の立場の正しさなのである。「正義」の立場から断罪し、断罪することで「正義」の正しさを確認するという一人相撲をやっているのに他ならないのである。

 こうした立花氏の思考の在り方こそ「他者がいない」と言うべきなのだろうが、私はこんな誰かから借りてきたような言葉で批判しようとは思わない。「他者がいない」というよりも、そもそも立花氏の批判の場は、学問的でないことはもちろん、思想的な批判でもなく、「主観的には・・・客観的には・・・」という論理に端的に現れているように、単に敵と見なしたものに対する政治主義的否定の論理・恫喝に他ならない。こうした政治主義的な恫喝に対しては無視するのが最良の策なのではあるが、ただ、現在においてもこうした発想は相変わらず残存しつづけており、朝鮮史や中国史を研究する者に対して、大学の制度や教育システムの問題以上に新しい自由な視座からの研究を抑圧している可能性もあり、座視できないという意味において、反論を加えているのであるが、こうした政治主義的な恫喝の効用もほとんどなくなっているという現実もあり、この私の作業もやらずもがなの「徒労」というべきかもしれない。

 しかし、徒労ついでにこの『公開質問』の政治主義的な立場をもう一つ指摘しておこう。この『質問』は、様々な文献の引用に満ち満ちているが、何のための引用かといえば、別段それぞれの文献の立場を立花氏が再構成しつつ自己の批判の場を構築するというためではない。それぞれの文献をそれぞれの形で投げ出し、それぞれを強引に湖南批判に利用しているに過ぎない。フーコーの利用の仕方がその典型であるが、それぞれの引用の文献と、引用した立花氏の位置とはどんな関係なのであろうか、と考えざるをえない。立花氏はどこにいるのか。それら引用の文献と同じ次元にいるのであれば、私は数十人の立花氏と向き合わなければならないだろう。それらの文献の共通項に立花氏がたっているというのであれば、何が共通項なのかをはっきりさせてもらいたい。湖南批判についていえば、湖南を批判しているというだけの共通項しか成立していない。要するに利用しているに過ぎない。これ見よがしの装飾に過ぎないのである。増淵龍夫と子安宣邦を同じように扱っては、増淵氏に対して失礼である。バルトの「テクスト論」をここで論ずる必要はない。フーコーなど持ち出す資格はない。要するに立花氏は、敵の敵は味方という政治主義的発想のもとにこれらの文献を利用し、こけおどしの素材として利用しているに過ぎないのである。まさしく政治主義的発想の典型的な現れである。しかもこれらの文献を総合しても、湖南の描いた中国社会像、中国歴史像に拮抗すべき、あるいはそれを批判しうる中国社会像、中国歴史像はどこにも成立していないのである。これはいったい何なのか。この『公開質問』を介して立花氏は利口になったかといえば多分何のプラスもなかったであろう。批判しようとして批判したに過ぎず、批判対象から学ぶなどということは全くなかったであろう。湖南を読み、湖南研究を読んでも、立花氏の思い描く中国社会像、中国歴史像、さらに言えば朝鮮社会像、朝鮮歴史像は少しも豊かにならなかったであろう。そのようにしか読んでいないからである。立花氏に反論して、私に得るものがあるのかといえば、多分徒労感だけである。「クソ」としかいいようがないではないか。








立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答(その3)

・・・・「いつか来た道」・・・批判的主体の位置

                             山田 伸吾



3、「色眼鏡」で見れば読解力も失われる、ということ



 これまで『公開質問』の基本的立場に対して批判を展開してきた。おそらくは反論としてはこれで十分なのであるが、基本視座についての批判は立花氏に届くことはないだろう。

意図的に、確信犯として、政治主義的批判位置に立っているのだろうから。

 そこで誰もが承認せざるをえない、立花氏の「誤読」あげつらって具体的に彼の揚げ足をとることにする。

 まず、(P8)に湖南の「無神経さ」を批判した箇所である。湖南の京城の南大門での感想のなかに韓国の巡査兵隊の「不行儀」を指摘した箇所があり、それを捉えて立花氏は「侵略国家の人間に対して、行儀良く振る舞うことを期待する方が余程お目出度いということを湖南は知らないらしい」などと述べているが、こうした捉え方にこそ無神経というか<偏狭さ>を感じざるをえない。この「不行儀」はもちろん日本人に対しても朝鮮人・同朋に対しても発揮されたものであって、韓国の巡査兵隊が、日本人に対してだけ「不行儀」に振る舞い、朝鮮人同朋に対しては行儀良く振る舞っていたなどという理解は到底成り立たないだろう。本当にこんな読解力で湖南の文章を正確に理解できるのであろうかと疑わしくなってしまう。

 ここの箇所に付された「注5」はさらに傑作である。戦略戦術を語ることがそのまま「民衆」や「人民」に対する想像力の欠如の例とされている。一体どんな理屈でこんなことが言えるのだろうか。

 韓国の巡査兵隊たちの「不行儀」は、日本の巡査兵隊の「不行儀」の拡大再生産したかたちであるという見方であれば成立するのかもしれないが、こうした素朴な観察に対しても「差別主義者=湖南」という色眼鏡をかけてみると、こんな風にゆがんだ理解を形成してしまうということである。自戒しなければならない。

 またこの同じ章の(注6)では台湾の研究者の文献を紹介しながら、日本の中国学者の中国人に対する「差別的言辞」が取り上げられているが、そこに現れているのは中国人の「汚さ」についての素朴な感想に他ならない。原著者の意図はわからないが、立花氏はこうしたことを引用して「中国の古代文化の尊重と近代中国の蔑視という『矛盾』」を指摘するのだが、これは普通に考えて「矛盾」でも何でもない。中国の文化(必ずしも古代文化には限定されないと思う)を尊重し、その価値を認めれば認めるほど、「近代中国」の姿=西欧列強に蹂躙され、日本にさえ屈服せざるを得ないかに見える「死に瀕した中国社会」は我慢ならないものに映ったとしても当然である。だからといってそれを「蔑視」と呼ぶことには賛成できない。それに中国人の「汚さ」についての素朴な感想は、別段「蔑視」の結果ではない。西欧人が日本人を「魚臭くて、同席するに耐えない」というようなものであり、こうした素朴な感想を抱くことを「中国文化尊崇が観念的であり、現実を欠いていた」などと捉えることこそ大きな誤りである。「現実」は「汚さ」にまみれていたのであり、その現実を素朴に表現することが「現実を欠いていた」などとは言い得ない。立花氏は、湖南に「支那人とすれ違いに、衣袖の相触るるさえ快からぬ」に続いて「然れどもそのうちなる精神こそ自立の気構えがあり尊崇にたる」とでも言わせたかったのだろうか。あるいは夏目漱石に支那人のクーリーは、「一人見ても汚らしいが、二人寄ると猶見苦しい」に続けて「しかしこれも日本や列国の侵略によるものであり、この貧困の責任を我らが自覚しなければならない」などと書けば立花氏は満足したのであろうか。これこそ超観念的な「現実」と言ってよいだろう。一体「現実を欠いている」という「現実」とは何を指すのだろうか。

 前にも触れたが、立花氏は湖南の『朝鮮の将来』に触れて、そこで述べられている「移民推賞」「同化政策」への賛意を「ヒトラー張りの<ショアー>」と批判しているが、全く異質なものである。今日の時点から当時の日本の朝鮮支配の在り方、「移民政策」「同化政策」をどう考えるかは別にしても、ここでの湖南の発言は朝鮮人の民力の弱さについての指摘と、「同化政策」による「民族」の区別の解消ということだが、前者は事実認識であり、後者が「民族の処分」(これは決して「抹殺」という言葉ではなく、民族問題についての対策と受け取るべき言葉である)についての具体策と言える。多分この「処分」を「意図的抹殺」と読み誤って立花氏は<ショアー>と位置づけたのであろうが、これも「誤読」の類である。しかも事実認識の部分を「彼らが取るに足りない人たちだと強弁する」というように勝手に湖南の「意志」と読み替えてしまっている。

 さらにこの<ショアー>についての(注2)では、戦前の日本人による「朝鮮史」研究の問題点を取り上げた姜東鎮の著作を引きながら「当時の新聞を読むと、『朝日』をはじめ、半島の植民地化を肯定・支持する『社説』の多さ・過激さに呆れてしまうが、この文脈に置いてみるならば、内藤の<ショアー(絶滅)>論もさほど違和感のないものであったことがよくわかる。」と述べているのだが、こうした指摘こそ驚くべき想像力の欠如と言わねばならない。「半島の植民地化を肯定・支持する『社説』の多さ・過激さに呆れる」などと述べること自体に「呆れかえ」ってしまう。当たり前ではないか。植民地化という事態が揺るぎない事実として進行していた時に、国際的な緊張が持続的にあった時期に、しかも植民地化が東亜の「正義」と信奉されていた時代に、「植民地化」への批判・否定の論調が紙面を賑わすなどという事態を想定することこそ、呆れかえるほどの認識不足といわなければならない。過激な「植民地経営」についての論調が支配的な状況の中に湖南の朝鮮論を置いてみれば、そうした過激なナショナリズムとは一線を画した内容が備わっていたことに気づくはずなのだ。「文脈に置く」とはそのような理解の仕方を言うべきである。

 湖南の中に「ナショナリズム」の要素が色濃くあったことは事実である。文明的進歩という視点からの社会や文化、人種についての等級的な分け方が存在したのも事実である。ただ、これは今後の検討課題にもなるのだが、湖南のナショナリズムは、天皇制超国家主義に行き着くものではなかった。このことは、湖南の辛亥革命に対する考え方、満州国に対する考え方からもわかるはずである。また、文明的進歩についての考え方も、明治思想に強い影響のあったと思われるスペンサーなどの社会進化論とは異質な、中国文化を中心に据えた「文化」進化論とでもいうべきものであり、今日のような科学技術や生産力に進歩の指標を置く発想とは対極的な位置に立つているという意味でなかなか面白い内容を備えていると見るべきである。無論、これは私たちの課題であって、立花氏の課題ではない。立花氏が、湖南のナショナリズムを問題にするのであれば、湖南の理論を「でっちあげ」(これは本当にまっとうな人の「言説」ではありえない)などといい加減な言葉で批判するよりも、湖南の歴史理論の中にどのようなかたちで国民国家的幻影あるいは超国家主義的幻影が滑り込み理論の限界を形成しているかを検証してみるべきである。それをなしえないならば、湖南を読む、湖南研究を読むなどという無駄なことはしない方がよい。私もこんな徒労感しか覚えない反論を書く必要もなかったのだから。

 また、立花氏はもっと驚くべき「誤読」を犯している。湖南が色々な所で述べている「支那社会」の「自然発動力の潜運黙移」を「緩く、重く、鈍く、強く推し流れている」と表現している点を捉えて、この「支那人」観は偏見に満ちている、中国人には自発的革新力がない、と意味づけているのだが、この「緩く、重く、鈍く、強く」の「潜運黙移」を「偏見」、中国人に対する「侮蔑」のように理解した人は、立花氏が最初である。おそらくは最後の人とも言えるだろう。これは中国社会の根底に流れている歴史を動かす力、容易にはそれを捉えることはできないのだが着実に社会を動かし、歴史を動かしてきた根源的な力を表現しているだけで、「偏見」とは全く無縁の言葉である。ある意味では自前の歴史の流れがあるという考え方である。これを「自発的革新能力がない」などと受け取ることなどどうしてできるのだろうか。立花氏自身が湖南に対してはじめからある種の偏見があり、その偏見の目(色眼鏡を通した目)がこうした誤読を可能にしたのであろうが、こうした偏見の目で読解されてしまうというのは、湖南にとっても、私たちにとっても災難である。さらにここから子安氏の湖南批判を援用するのだが、子安氏の湖南批判は、『支那論』の正確な読解に上になされたものではない。ましてや湖南の歴史理論の全体を視野に入れたものではなく、『支那論』の「自叙」の言葉尻を捉えた難癖に近いもので、取り上げるに値しない。子安氏が湖南の「唐宋変革論」や「清朝史」についての考え方について歴史理論の立場から論じているのであれば別だが、「自叙」の言葉を『支那論』の内容から切り離してイデオロギー的に批判しても無意味である。しかし、この問題は、立花氏の問題とは別の子安氏の問題である。ただ、腹立たしく思うのは、どうして立花氏がこうも易々と人の批判の尻馬に乗ろうとするのだろうか、ということである。立花という批判主体はほぼ消えている。ある時は増淵龍夫に、ある時は子安宣邦に、ある時はサイードニ、フーコーに、ハンナ・アーレントに、バルトに、まるで「七つの顔を持つ男」である。「文化人」立花涼の面目躍如というところだろうか。しかし、ともあれ立花氏の「誤読」は彼自身の問題である。



 この『公開質問』のすべての内容が私には承服できないが、すべてに反論することは、あまりに煩わしい。気づいた点について列挙して反論をしておこう。



 *湖南の「日貨排斥批判」についての(注2)に「内藤の言説は、当時の状況を誤解しているか歪曲しているかのいずれかでしかないのは、現代から見て明らかである」とあるが、どんな「現代」なのか。これは立花氏の考える「現代から」の視点に立てばというにすぎず、立証を伴っていない。何を根拠に「明か」というのか。誰かの説を引用するのではなく、一度立花氏自身が資料の山に入り込むがよい。「明らか」なことは何一つないということに気がつかざるをえないはずだ。それに氏の「現代から」の視点自体を自己検証した方がよいように思われる。かなり視力が落ちている。



 *(P11)には「文字は権力と不可分であり・・云々」などという指摘が、湖南の「文化主義」と接続され、「文化主義」が「民族主体の軽視」を孕むなどと述べられているが、「文字文化」を中心に歴史を見る在り方が、そのまま権力者の歴史の見方になり、「民衆の軽視」することになるなどとこんな杜撰な発想がどこから出てくるのか。こんな発想からすれば文学は皆「権力者の文学」にしかならないだろう。こんな馬鹿げたことを本当に考えているのだろうか。酔っぱらいの戯言としか見えない。



 *『内藤湖南全集』の「恣意的編集の在り方」が(P12)の(注1)で指摘され「それを等閑に付してしまっている現代人のあり方、中国研究者のあり方」を問うべきだとしているが、確かにすべての湖南の文章が収録されてはいないけれども、「等閑に付してしまって」いるわけではないし(現に私は『全集』に収録されていないことを明らかにしつつ、それも利用した)、抜け落ちている文章を検討しても(すべてを検討できたわけではないが)編集者の「恣意的」と言えるほどの「恣意」を認めることはできないように思われる。ただやはりあまり読む価値がないような駄文も湖南は書いていたことは事実であり、その選別の基準には立花氏がおそらくは想定しているような政治的な「恣意」を読みとることはできないだろう。「恣意的編集」と批判するのであれば立花氏自身がその「恣意性」を具体的に明らかにすればよい。満州に関しても、朝鮮論に関しても、『全集』に収録されていないものを読んでは見たが、それによって湖南像に修正が必要になったということはなかった。ただ、湖南も人の子であり、つまらぬ文章も書いていたことを確認してやや安心したことは事実ではあるが。もちろん、すべてを収録してあれば図書館通いをしなくて済んだのに、という思いはある。

 また、『全集』の「テクスト確定」は確かに必要である。立花氏の意図とは別に、さらに厳密な校訂が必要である。しかし、こうした『全集』は永遠に完成はしないものなのであろうが。



*私の「内藤湖南と満州」について、「戦争中、日本国籍を強要された朝鮮人・中国人などは立派に資格のある『日本人』だ。彼らには立派に『日本人』の『責任』を問う資格がある」と述べているが、「日本国籍」を強要された朝鮮人・中国人にはその状況に対して全く責任がなかったなどというのはあまりにも朝鮮人・中国人の主体性を無視した議論ではないか。「民族主体」を重視する立花氏であれば、日本国籍を強制された時に抵抗か服従かの実存的決断が迫られたのであり、まさしくその決断にこそ「民族の自由」が賭けられていた、ぐらいのことを述べてほしい。

 ともあれ、ここで私が述べている「責任」とは、満州国に関わっていった湖南も橘も、自分たちの考える「満州国」に現実を引き寄せようとして果たせず、関東軍による傀儡国家化を阻止できなかったということについて「責任」であり、そうした「責任」があるとすれば(予め言っておくが、ここで私は立花氏のように「責任」を追求すべきだなどといっているわけではない)、誰もが責任を免れない、と述べているわけだが、無論、朝鮮人だろうが中国人だろうがこの「責任」から免れるわけではない。というよりもそうした歴史状況についての「責任」などという倫理的言語の無効性を言うためにこそ、あのような書き方をしたのであるが、その意図が立花氏にはまったく伝わらなかったようだ。私の文章力の拙さを恥じなければいけない。

 そもそもある歴史状況についての責任とは、その歴史状況を作り上げた存在すべてに背負わされるべきものであろう。ただし、この「責任」とは立花氏が想定しているような、正義の立場から悪を断罪するというような性質を持つものではない。

 「侵略戦争」の責任について、徐京植氏の言葉=「侵略の犠牲者、侵略への加担を拒否したものには」「責任」を問う資格がある、などと述べた箇所を引用して「侵略戦争を擁護するいかなる言説も肯定することは出来ない、たとえそれが『義務』であったとしても、免罪符とは決してなりえないのだ」と立花氏は述べるのだが、相変わらず「現在」からの「過去」の断罪という構造を持ち、「侵略戦争」のさなかに語られれば「かっこいい」と絶賛できるのだが(これも「過去」についての絶賛にしかならないが)、しかし、一体誰が「免罪符」を発行するというのか。立花氏が「裁く」のだろうか。徐京植氏の言葉からすれば、同時代に生きた「侵略の犠牲者、侵略への加担を拒否した者」が責任追及の資格を持つと述べていることからすれば、これは同時代的責任追及の意味らしいが、徐京植氏自身が「侵略の犠牲者、侵略への加担を拒否した者」であって「責任」追求を「今」しているということなのだろうか。日本の侵略戦争は悪かったとその遂行者や加担者をいかに批判したところで、現時点での「免罪符」(何の免罪符かよくはわからないが)が手にはいるというわけではないのに、と私などは考えてしまうのだが。

 いずれにしろ、こうしたタイムマシンに乗ったような「責任論」を予め封じておこうとして「内藤湖南と満州」の「責任」を述べたにもかかわらず、封じるはずの批判をかえって意に反して引き寄せてしまったという点では私の不明を恥じなければならないだろう。



 *(P24)では湖南の「唐宋変革論」がやり玉に挙げられているが、これには反論のしようがない。「『ギリシャ文化』のないところに『ルネッサンス』を考えることなどほとんど無意味」と述べる立花氏は、一体私たちの論文を正確に読みうる能力を備えているのであろうかと疑念さえ生じてしまうからである。湖南にとっての中国の「近世(近代)」とは西欧のそれと同じものとして想定されているわけではないことは、どの論文をとってもわかるはずである。一体どういう読み方をしたらこんな言葉が出てくるのであろうか。「『唐宋変革論』から『辛亥革命』をその1つの連続的な帰着点とする『史観』などどう見てもまともな学者の言説ではあり得ない。『君主独裁制』から『共和制』に至るには大きな歴史的断絶の必要なのは西洋の歴史を見れば明らかであり」などと書く神経もよくわからない。どうして立花氏が「西洋の歴史」基準から中国史を眺めるなどという立場に立つのか。「西洋の歴史」でさえも「中世」「近世」の捉え返しが行われつつある時に、何の疑念も持たずに「西洋の歴史を見れば明らか」などと言えるのか。こうした態度こそ「どう見てもまともな」人間の「言説ではあり得ない」だろう。立花氏は「共産党の輝かしい勝利の軌跡」を記した中国共産党公認の「現代中国史」の記述をありがたく信奉していればよい。信仰こそが幸福を生む。

 湖南の例示する「近代支那の文化生活」で、『紅楼夢』の貴族生活が挙げられているのが気にくわないようだが、別段この当時の「政治体制」を「最良のもの」として挙げているわけではない。これも「誤読」である。この部分はあくまでも「文化」の説明である。これを橘は「有閑階級の文化」などと批判したわけだが、それは橘が「無産階級の文化」なるある意味ではこの時代特有の「理念」を持っていたからであって、橘の方に「文化」についての視野狭窄があったと見るべきである。湖南の「近代文化」とは、「朝に魚釣りをし、夕べに読書をする」などというあり方よりもはるかに具体的であり、「無産階級の文化」などという見方を取らない点で「今日的」でさえある。すべての人間が、労働世界から解放され、詩を語り、酒を飲み、恋をする。「清く正しく美しく」よりもはるかに水準の高い文化というべきである。残念ながら現代世界においては部分的にしか実現してないし、それに相変わらず政治と軍事がのさばっているという点では、湖南の「文化」の実現は遠い先のことになってしまうのだが。われわれの思い描きうる「文化生活」も基本的にはこんなところではないか。

















立花涼氏の「『内藤湖南研究会』への公開質問」への私的な回答(その4)

・・・・「いつか来た道」・・・批判的主体の位置

                             山田 伸吾



4、立花氏の批判の唯一の「妥当性」



 今まで『公開質問』の批判に対して反論を加えてきたが、細部には承服できないところが多々あるとしても唯一大枠では承認せざるをえない指摘がある。この点は公正に認めておかねばならない。それは私たちの『内藤湖南の世界』には、「湖南と朝鮮」論が欠落しているという指摘である。これは意図的にそうしたのではなく、研究会参加者の個々の関心に即して論題を定めてまとめたため、結果的に湖南の「朝鮮論」が抜け落ちてしまったのである。「朝鮮」を抜きにして「アジア世界」を語るな、などという恫喝は認めないが(ベトナムから「アジア」を論じても良いし、インドから「アジア」を論じても良いし、「朝鮮」だけから「アジア」を語ることも可能であるし、「チベット」から「アジア」を語るのも良い。ともかくも自由にアジアを論ずることが必要である)、しかし、湖南には多くの朝鮮半島についての論評があり、「湖南と朝鮮」論も『内藤湖南の世界』に内包さるべきであったことは確かである。別段無視したわけではないが、一つの理由を挙げるとすれば、本書を企画した時には研究会参加者の中に「朝鮮史」あるいは湖南の「朝鮮論」に関心を持つものがいなかったのである。立花氏であれば「そのあり方こそが問題だ」などと言うのだろうが、自由参加のマイナーな研究会であればやむを得ないことと言わねばならない。

 しかし、本当の理由は、本書を企画した段階では、私たちの研究会が湖南の「朝鮮論」にまで到達していなかったからである。ただし、本書刊行時点と重なりながら、「間島」問題を含めて、湖南の「朝鮮」論は論議の対象になり(間島問題については、これを研究課題としている名和悦子女史から詳細な報告がなされた)、おそらくは「湖南の朝鮮論」というかたちで文章化されるだろう。ただ、立花氏が期待するような、「朝鮮侵略」を美化する「ナショナリスト」などという先入観は捨て去った地点からの論究になるだろう。



 ここまで立花氏の『公開質問』なる「怪しい」文章につき合ってきたが(つき合わされてきたが)、正直言ってもう結構という感じがする。批判するのは自由だし、反論するのも自由ではあるが、批判するにしても立花氏自身の中国社会についての考え方、朝鮮社会に対する考え方、さらに言えば氏自身の「戦後社会」における責任の取り方をはっきり主張すべきである。つまらぬ「政治主義的言語」は、せめて現在の政治的状況にだけ向けてほしい。少なくともそこでは若干の効用があるかも知れない、と考えることが可能であるのだから。

 しかし、本当に他者を批判するのであれば、批判的主体の位置を明確にすべきである。「七つの顔を持つ男」になってはいけないし、絶対「正義」などという位置に身を潜ませてはならない。ましてや人のふんどしで勝負するなどというふやけた立場に立ってはならない。それに何よりも立花氏は、何のためにこんな『公開質問』などという訳のわからない文章を書いたのだろうか。湖南を批判するのはよいが、何のために批判しているのか皆目理解できない。「私怨」でもないし「公憤」とも言えないし、何のために湖南や『湖南研究』を読むのか理解できない。現在のアジア研究のあり方に憤りを感ずるのであれば、「現在」を凌駕する研究を立花氏自身がものにするべく努力すればよい。アジア世界に対して氏自身が罪の意識を持つのであれば、その意識にかなった思想表現をすればよい。過去の断罪などというあほくさい位置にどうして安易に立ってしまうのだろうか。

 湖南はいけない、湖南を評価してはいけない、それは犯罪だ、という。このような裁判官的な位置にどうして立花氏は立てるのだろうか、立ってしまうのだろうか。そこに逃げ込むのが実のところ一番簡単であるから、と考えざるをえない。「侵略戦争はいけないよね」「植民地を作るなどというのはそれ自体犯罪だよね」「民族差別はいけないよね」「文化の抑圧はいけないよね」というスローガンは今のところ批判しにくい絶対「正義」であるだろうが、そのような「正義」を口にしたからといって「正義」は実現されないし、「正義」の位置に自分がいることの保証ともならない。それによって過去の人あるいは過去の「正義」を断罪したとしても、自己の立脚する「正義」への自覚、つまりは自己の「正義」の相対的な位置の自覚を促すものにはならないだろう。そんな断罪よりも、借り物ではない立花氏自身の「中国社会論」「朝鮮社会論」をひっさげて湖南と向き合うことを希望する。そうした批判であれば、私たちもまっとうな反論を用意しなければならないだろう。研究者などという限定をする必要はないが、中国や朝鮮、その他のアジア諸国とかかわろうとするものたちの「責任」とは、やはり日本も含めた今現在の中国、朝鮮、アジア諸国の実情を正確に把握し、少なくとも「それは何か、今中国は何か、朝鮮は何か、アジア世界とは何か」の問に答えていく必要があるだろう。立花氏もそうした位置に立つことを切に希望する。政治的言語は本当の政治の場で発揮すればよい。       (了)