関西学生應援團連盟【12】【完】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

ここまで関西学生應援團連盟についての解説を書かせて頂きました。同連盟が勃興した昭和50年代後半という時期は応援団業界の過渡期でありました。昭和50年代前半は「嗚呼!花の応援団」で描かれている様な親衛隊、リーダー部の二部構成で厳めしい学ラン姿の黒い軍団が応援団だと認識されておりましたが、50年代後半には現在にまで続くリーダー部、チアリーダー部、吹奏楽部による三部構成の応援団組織への移行が進んだ様に思います。
 
理由の一つには関西ではアメリカンフットボールが競技連盟の尽力でメジャー競技として認知され始め、また関関同立の一角である関西学院大学が強豪であった事からアメリカンフットボールの応援が一つの課題となって来たという点が考えられます。
アメリカンフットボールでの応援が盛んになるつれ、競技協会の方より応援団の太鼓に関するクレームが入る様になります。太鼓の爆音がプレーの進行の妨げになるというものであります。従来型の応援スタイルは太鼓一張でありましたので、吹奏楽部と一体となった応援が必要となり、さらにはアメリカンフットボールの本場アメリカでは欠かせないチアリーダー部をも加え三位一体となった応援が求められた訳であります。
 
こうした流れへの対応が各団の命運を左右する結果となりました。時代背景的にも昭和後期は景気が良く大学生の生活が華美になっていった年代でもあり、一般学生の体育会離れが進んだとも言われております。「男を磨く」という価値観も希薄になり、体育会文化を象徴する様な体質であるという印象があった応援団は敬遠される様になります。
 
連盟消滅後、先にも触れた様に大阪経済大学、大阪産業大学、大阪電気通信大学は平成の御代を迎えるまでに伝統ある團旗を降ろし、その一方で関西大学は関関同立の連盟の一員として近代的な応援団へと飛躍し、近畿大学は平成初頭にチアリーダー部を併設する応援部として再編成されます。大阪商業大学のみは当時の組織体制を維持し今日に至っております。
 
こうして見て参りますと関西学生應援團連盟の消滅は社会に強烈な印象を残した昭和の応援団像の終焉を意味しているのかもしれません。
今日、應援團関係者の中でも関西学生應援團連盟の存在についてご存知の方は少ない様です。当時、應援團文化を後世に遺していこうとした業界諸先輩方の努力を我々は忘れてはならないと思う次第であります。【完】
【大阪商業大学應援團(昭和57年)】
【関西大学應援團(昭和57年)】
【近畿大学應援團本部(昭和57年)】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会