近年の研究では我々が思う程、江戸時代の鎖国は峻烈なものではなく、想像以上に諸外国との交流があった事が解明されている様です。それと同じく鎖団も徹底的に守られていたとは言えません。
交流を禁ずるとは言え、まず我が団OBとの交流を断ち切るのは不可能でありまして、演武ひとつ取っても過去のリーダー部の諸先輩方の指導を仰がねばならず、なし崩し的に従来の形に戻って参りました。
応援団OBと言えども我が校の卒業生である事には変わりありませんので、大学に後輩の様子を見に来る事を禁じる明確な根拠もなく、有耶無耶になった訳であります。反社会的勢力に就職されたOBも同様でありまして、暴対法も暴排条例もない当時、我が團OBであれば指が欠損していようが彫り物があろうが、往来は自由でありました。
一方、従来、新入生歓迎コンパや三武会の祝宴、OB総会やOBの結婚式等と言ったイベントがありますと、会場の前に團旗を掲揚する習慣がありましたが、繁華街で目立ってしまい「私的な行事で團旗を掲揚するとは不届千万」と当局に指導を受ける事が多々ございまして、この文化は時代を下る度に廃れて参りました。
他方、乱舞祭の運用については年代でばらつきがございます。他校の乱舞祭を見学する、当方の乱舞祭に他校を招待する、というのはごく一般的な業界の慣習でありましたが、我が校の新基準によれば無論、ルール上では御法度でございます。
とは申せ乱舞祭の往来は応援団稼業の醍醐味の一つでありますし、大学関係者も毎回、観覧に来られる訳でもなかった事もあり、運用は年代により異なる訳であります。見つかって指導を受けては運用を停止し、ほとぼりが冷めた頃に再開する、そんな歴史が繰り返された次第であります。
伝統的なものを重んじる印象が強い応援団でございますが、応援技法や乱舞祭の構成等でも「こうでなくてはならない」と規定されている訳ではありませんので、他校で画期的なものが誕生したりしますと、忽ちそれは伝播致します。
また他校で団員が爆発的に増えたり、見違える様に精強になったりしますと、危機感を覚え大いなる刺激となり團勢が回復する契機になったりも致します。
明確な優勝劣敗が規定されていない応援団の世界であるが故に他校との切磋琢磨する関係性は大事ではなかったのないかと今では思う次第であります。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会