トシオくん【3】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

我が甲南大学は、関西財界の子息の教育機関を設立する目的で建立された甲南幼稚園(明治44年)、甲南小学校(明治45年)がその源流であります。そして大正8年に中学、大正12年には高校が開校し、大東亜戦争後の学制改革の中、昭和26年、甲南大学が建学されたのであります。

 

斯様な沿革でございますので、関西では「甲南」という名はそれなりの知名度があり、関西財界の子息が通うお坊ちゃん学校、というイメージが、後年より遥かに強く根付いていた訳であります。

 

綺羅星の如き財界の著名人を先輩に持つ、という我が校は、それが大きな財産であり誇りでもありましたが、應援團同士の交渉の場では、それらの事は無力と言うよりは逆にハンディとなるケースが多うございました。

初対面の應援團でも「フン、甲南か、どうせどこかの坊ちゃんだろう。一発、カマせば尻尾を巻くに違いない」と安く見られる訳であります。

 

幸いにも昭和28年に應援同好会が結成され、翌29年に創團された当初は、後に二代目、三代目團長を務める事になる本多孝雄先輩が終始、交渉窓口を務めていた為、他校に後れを取る事はなかったのでありますが、反面「本多さえいなければ、、、」という空気が生まれ、本多團長引退と共に、渉外の場は忽ち紛糾し始め、一歩間違えれば傷害の場になりかねない緊張感を孕んでいたのであります。【以下次稿】

 

甲南大學應援團OB会

八代目甲雄会團史編纂委員会