全日本学生應援團連盟 は東都リーグが母体でありましたが、全日本の名を冠し連盟が発足した当時は委員長が近畿大学應援團から選出されたとの記録がありましたので、関西勢も運営に深く携わって居た事が窺える訳でありますが、関西勢各校のそれぞれの事情で次第に脱退が相次ぎ、この時点では我が團のみが残っていた訳であります。その我が團も諸事情で昭和45年に脱退致しております。
都合十年程度、我が團は連盟に加盟させて頂いて居た計算になります。後年、書状を発送させて頂く時期になりますと、普段、お会いする機会もない多くの他大学應援團の宛名を書く事になり「どんな付き合いがあるのだろう?」と下級生は疑問に思う訳でありますが、この時のお付き合いが生きていた訳なのであります。
昭和45年に連盟を脱退後、我が團は應援團の連盟組織に属した事がございません。定期戦の関係で東京の學習院大學應援團との交流を継続されましたが、以外の他校との交流は代によって濃淡がある様です。
当時、記念祭に参加経験のある先輩のお話を伺うと、我が團では幹部1名、旗手、側立と呼ばれる團旗警護役など5名程度で参加するケースが多く、パレードの際は前を行く他校應援團は50名、我が團の後ろから来る他校應援團は100名、といった感じで、我が團もフルメンバーで参加出来たら、と切歯扼腕する思いであったそうであります。当時は今で言うリーダー部員だけでこの人数ですので、さぞ壮観であったであろう事は想像に難くありません。
今回の資料は本記念祭が開催された折、一回生であった十六代目の先輩より寄贈頂きましたが、内容を具に拝見しておりますと、現在、当会と現役應援團再建という共通の目標を共有し交流させて頂いております日本大学應援團を復帰させる会 発起人である中島慎一大兄のお名前を発見しました。たまたま入手出来た資料でお名前を発見する奇縁に驚くばかりであります。