第8回 求道者 森下暢夫(三十七代目甲南大學應援團副團長)【1】
森下暢夫副團長は中村團長が3回生の折の1回生であります。森下副團長は最初から應援團を志願し、入團して来た訳ではなく、どちらかと言えば、勧誘に際し、かなり激しく抵抗していた部類に入ります。
と申しますのも彼は浪人した関係で、高校の同級生であった36代目 井上満哉副團長が1年先輩にいた為であります。高校の同期とは言え、應援團に入ってしまえば、峻烈な先輩-後輩の枠組みの中で日々を過ごさねばなりません。
また彼は大学受験にあたり関西学院大学へ入学し、当時、流行だったテニスサークルに入り、酒池肉林に溺れる日々を夢見ておりましたので、不本意ながら入学した甲南大学で、何が哀しくて高校の同級生にしごかれながら、應援團稼業に邁進せねばならないのか、という想いだったでありましょう。
しかし我が應援團の観点から申せば、團員の顔見知りが新入生の中にいるというのは鴨が葱を背負った上に鍋まで持参して歩いている様なものでありまして、こんな千載一遇の好機を逃している様では團勢が拡大する訳はありません。我が應援團名物の押しの一手の勧誘の前に森下副團長の俗な野望はいとも簡単に打ち砕かれ、入学式の日には團員となっていたのであります。
森下副團長は昭和63年入学でありますので、昭和最後の代の團員になります。当時はバブルの熱気で社会全体が活気が溢れ、且つ子供が多い年代でもあり我が校も学生数が8000人を突破致しておりました。その影響もあって我が團も延べ10名を超える新入生が入門致しました。
時の幹部は小川34代目團長、日々の練習や行儀見習いの直接の指導者である3回生も後の35代目 中村團長でありまして、両名共、苦労人でありますので、春先の團運営は新入生を残す事に主眼を置いたソフト路線でございました。いきなりキツい練習を課す訳でもなく、登下校時は私服でも良い等、大胆な緩和策を打ち出しておりましたが、結果的にこの代で残ったのは3名でございます。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会