我が應援團二代目本田團長は「英雄 色を好む」と故事に言うが如く、当時のキャバレー遊びが好きでありまして、昨日、ご紹介させて頂いた神戸のキャバレーの総本山「新世紀」にもしばしば姿を現しておりました。
戦後10年という歳月を経てはおりましたが、まだまだ荒っぽさが色濃く残る社会情勢でありましたので、酒が入るキャバレーという場所はトラブルの巣窟でもありました。「新世紀」の場合、すぐ裏手に生田神社がありまして、かつては生田の森と呼ばれた名勝地でありますが、この場合「ちょっと表に出ろ!」との口論になりますと格好の決闘の場になるのであります。今でも生田神社の入口のすぐ東側に三宮で一番、大きい交番がありますが、こういった事情があるのやもしれません。
本田團長以下、血の気の多く、また幾多の実戦経験を経て多少、腕に覚えのある團員が多くおりましたので、これらのトラブルの当事者になった事は一度や二度ではございません。特に昭和30年に勃発した三宮を版図とする戦前からの老舗博徒G組との死闘は特筆すべき事件でありましょう。
後年、我が應援團の團員が三宮等で飲んでおりますと、不意に見知らぬ方が学ランの胸のバッジをしげしげと眺め「なんや、本田はんの後輩か」と懐かしそうに声をかけられたものでございます。かくして我が應援團の交友半径は徐々に広がり、少しづつではありますが、神戸の街に定着して参った次第であります。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会