甲南大學應援團が生まれた時代【8】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

建学当初の我が校は、巷間で言われております通り関西財界の子息が多く通っておりました。スチュードベイカーオースティンマーキュリー 等の高級外車で大学に乗り付ける者も珍しくなかったと伝えられております。

 

これは我が校に限った事ではなく、国民が生きる事に精一杯だった時代でありますので、今日の様に大学進学率は高くなく、自ずと大学へ来る者の多くは一定以上の家庭の出身者であると言えましょう。ただ甲南の場合はかなり裕福な家庭に育った者が多かった訳であります。

【北方より甲南を望む(昭和27年頃)】
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ただ当時の学生は戦前・戦中に初等教育を受けておりますので、長幼の序を重んじる縦社会の文化が身に沁みついておりましたし、学内でも教職員の存在に反抗する者も殆どいなかった様であります。

当時の大学生は男子生徒は詰襟の学生服を着用し、右襟に校章、左襟に学部章を付けて登校ししており、特に我が校の場合、中高も同じキャンパス内にありましたので、人によっては高校生に間違えられる事もあった様であります。

 

当時は戦前の甲南高校の施設を流用しておりましたので、甲南伝統の歌にも出て参ります「白亜城」の名に相応しい白塗りの学舎であります。

 

建学の翌年、昭和27年には新たに経済学部を設置し、順調に学生数も増加傾向に転じました。多くのクラブも昭和26~27年に創部されております。まだまだ学生数が少なく、試合に出場するための最低人員を確保するにも各部、四苦八苦していたと伝えられております。

【白亜城の象徴 1号館】
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八代目甲南大學應援團OB会

團史編纂委員会