甲南大學應援團が生まれた時代【5】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

広く知られております通り三宮が神戸の中心地となったのは戦後の事であります。神戸駅に程近い現在は総合庁舎が建つ中央区橘通1丁目にあった市役所が昭和32年に現在の場所に移転致しました。


戦後、前回、ご紹介した高架下の闇市、そごう百貨店前の通称ジャンジャン市場を中心にいち早く復興、昭和21年秋に三宮センター街が、昭和30年代から40年代にかけて三ノ宮駅前に新聞会館、神戸国際会館、交通センタービル、神戸商工貿易センタービルなどが相次いで建てられ、復興が遅れる新開地から市の中心街の地位を奪う形になりました。

三宮の地名は元町の大丸北にあります三宮神社に由来します。故に今日の感覚で申し上げますと三宮はかなり元町寄りの地域を指す地名であった様であります。事実、明治7年に開業した国鉄三ノ宮駅は現在の元町駅の場所にございました。


現在のフラワーロードの位置を流れておりました"暴れ川"生田川を現在の位置へ付け替える大工事が明治期に行われた事により集落が東側に拡大致しました。そういった背景もあり、昭和4年3月、国鉄高架化に伴って三ノ宮駅は現在の場所へ移転した次第でございます。尚、移転後の旧三ノ宮駅は、官公庁および海運商事会社が多く政治経済の中心となっていた為に、請願駅として昭和9年に国鉄元町駅が開業しております。


新たな三ノ宮駅が設置されると昭和8年に阪神電鉄が地下より、昭和11年に阪急電鉄が高架で乗り入れる様になり、三ノ宮駅は東神戸の新興住宅地をバックとするターミナル駅となり、更にはそごうが元町から阪神三宮駅前に移転、付近には映画館や飲食店が集中して西の湊川新開地に比肩する歓楽街が形成されるに至ったのであります。


甲南大学が建学された当時、市役所は兵庫区の現在の湊川中学と兵庫区役所に移転し、三宮は急速に発展している途上にありました。甲南生は帰り道、神戸方面で何処か寄り道をするとなれば、既に三宮へ行くという形が定着していた様であります。


八代目甲南大學應援團團史編纂委員会