リーダー部列伝【3】後編 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

第3回 革命児 山口尊司(二十七代目甲南大學應援團リーダー部長)【後編】

山口リーダー部長の特徴はその創造性でありましょう。本来、リーダーの技術と創造性は別の能力でありますが、氏の場合、それが共存していた訳でありますので、その名を不動のものとしている最大の要因であると言えましょう。

自らが伝承を受けたリーダー部長が演ずる「應援歌」「乱れ八拍子」に関してはこれ以上はないという域まで研鑽し、自らの工夫も加え、後世にまで残る型を確立しました。
この後、リーダー部は演武や乱舞に関して、それまで以上のこだわりを持つ求道者の集団に変貌した感があり、やはり山口リーダー部長はリーダー部の革命児であったと思う次第であります。

そして特筆すべきは、新たな乱舞「甲勝健舞」を考案された事に尽きるでしょう。現在、伝わる乱舞は全て昭和40年代半ばには確立致しておりましたが、「甲勝健舞」は昭和56年に山口リーダー部長が考案したものでございます。

稀に「茅渟の舞」を二人で演じる事があった程度で、乱舞は基本的に一人で演ずるものでございます。ただでさえリーダーと太鼓の息を合わせるのに相当の修練が必要とされるところ、リーダーが複数になり、且つリーダー同士、太鼓、バックとの連携を考えますと、これは至難の業と言えます。

ところが「甲勝健舞」は3名のリーダーで行うという型破りな乱舞であります。当時、他校でも3名のリーダーによる乱舞はなかったと思われ、初お披露目となった二十七代目乱舞祭では称賛を頂戴したと伝えられております。

【幻の「甲勝健舞」】
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ところがその後、1学年が抜けてしまったり我が應援團は危機的状況を迎えます。リーダーに3名が立ってもそれなりの威容を誇るには、最低20名の團員は必要でありましょう。現に「甲勝健舞」が開発された当時、團員は30名程おりました。そんな時代の狭間に生まれた「甲勝健舞」は二十七代目の舞台が最初で最後になったのであります。

どんな乱舞であったのか詳細は伝わっておりません。また舞台での写真も何故か見当たらず、辛うじて練習の時と思われる写真が残って居る程度でございます。おそらく考案された山口リーダー部長、そして実際に演じた当時のリーダー部員3名の記憶の中にしかないかと思われます。

リーダー部の可能性をとことんまで追求し、リーダー部道とも言うべき道にまで昇華せしめた山口リーダー部長は、やはり偉大なリーダー部長であったと言えましょう。

【山口尊司リーダー部長】
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八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会