前回 、述べました通り応援合戦における暗黙の了解を心得ないまま、硬式野球の応援を繰り返すうち、遂に相手校の怒りを買い、試合終了後、殴り込まれるという一大事件に発展した事は、当時の我が團首脳にとっては衝撃的な出来事でございました。しかも相手は関西きっての名にし負う武闘派應援團であり、戦闘方法も組織的に統率がとれたものであり、我が團にとっては全てが青天の霹靂であった訳であります。
まずは現状を改善する為に交流があった關西學院大學應援團、關西大學應援團に應援團間の取り決め、しきたり等を教示頂くと共に、吉田内閣が放棄した交戦権は我が團では放棄せず自衛の戦力を保持する事を主眼に非常時の体制の検討を始めました。
当時は応援会場には多数、学生が観戦に訪れておりましたので、一旦、戦端が開かれますと、学生達に累が及ぶ事は何として避けねばなりません。
そこで登場するのが本多仁介 翁でございます。本多翁は神戸市の公共事業を請け負う本多建設工業や、神戸港の荷役事業を担う大神倉庫等、多数の企業群を束ねる実業家であり、当時の神戸では名高い名士でありました。
当時の我が團の本多孝雄團長はこの本多仁介翁の甥にあたります。本多翁には随分と目をかけて頂き、須磨の本多邸で本多團長以下團員の一部が寝起きしていた時期がございました。
本多邸には部屋住みと呼ばれる若者が多数、寝起きしておりまして、本多團長以下團員もその一団に混じり早朝から広い邸内を隈なく掃除する訳でありますが、その時の経験が後に我が團の当番制度に生かされる訳であります。
またこの期間、本多翁から賜った薫陶が多々、創團間もない我が團の骨組みの一部となっております。例えば本多翁は自身が率いる本多会でも会則を設け、配下の者を厳しく躾ておられましたが、それを倣い團則を設け、團員の統制を図りました。
また以前、記事 で幻の初代團バッジの事に触れましたが、そのバッジはこの時代に採用されたものであります。当時はまだまだ鉄の値段が高く、自前のバッジを作成し、100名もの團員に配布するとなれば、相応の費用がかかります。
そこで本多團長は本多翁が代表を務める本多会の徽章を頂き、そのまま團バッジとして使用しておりました。名高き本多翁の「本」の字を模った釣鐘と呼ばれたデザインであります。
本来はスーツの襟に付けるものでありますが、我が團では詰襟の右側に付けておりました。これで團員の士気は一気に上がり、連帯を深めた事は言うまでもありません。
【初代團バッジ(実物は現存しておりません)】
八代目甲南大學應援團OB会
團史編纂委員会