前稿 の続きであります。三代目甲南大學應援團はリーダーの型のみならず様々な面で組織の基盤が確立した代でございました。本田孝雄團長の比類なき統率力で我が團の史上最大規模となる團員100名を呼号するに至ります。もっとも当時は後年に様に各クラブの垣根が明確ではなく、正確には最大動員数が100名であったという意味合いでありましょう。甲南大学は昭和31年当時、学生数は約1000名程度という大学としては規模が小さく、正規の部員だけでは試合に必要な人数さえ集まらないクラブもあり、兼部が当然という時代でありました。よって試合が近づくと選手の貸し借りが盛んに行われておりまして、ちょっと運動神経が良い学生がおりますと様々な競技に借り出されていたと言われております。よって應援團でも普段は他部に所属している者にも応援の型や歌や掛け声を教え、いざ応援、となりますとそういうメンバーも動員するという運用が為されていた様であります。今から考えれば随分と長閑な感じが致しますが、應援團の本質を垣間見る事が出来ます。今日でも仮にこういう運用が可能であれば素晴しいと思うのであります。
さて、四代目を上山太郎先輩が継承し、三代目時代に確立された運用についても見直しや改良が行われ後世にバトンタッチしようという意気込みがございました。例えば我が團の歴史で初めてトレーナーが採用されたのもこの四代目時代であります。当時、既に関関同立では一部、採用されておりましたが、それでもトレーナーは珍しく、革新に挑み続ける應援團という姿勢を内外にアピールする結果となりました。
【トレーナー姿の團員 左端の学生服姿が上山太郎團長(昭和32年)】
四代目甲南大學應援團で二代目リーダー部長を務めたのが山本英男先輩であります。入團当初から器用さと運動神経の良さを買われ、1回生ながらリーダーに立つ様になっておりました。また時の本田孝雄團長に心酔し、同期の吉村公先輩と共にいつも本田團長に影の様に付き添っていたと言われております。山本先輩は酒豪としても知られ、アルコール摂取量と血の気の多さは團内でもトップクラスでありました。三代目当時、大学中が蜂の巣を突いた様な騒ぎとなったある大事件の発端が夜の三宮で起きたのでありますが、その当事者の1名が山本先輩であった事は隠れた我が團の歴史でございます。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会