アンジェロです。
私は、歴史(日本史・世界史)が好きで以前よく調べていましたが、第2次世界大戦当時のフランス史も興味の一つでした。
Wikipediaに結構期待していたのですが、ほぼ更新されないのでこちらから情報を提供するのでどなたか以後の文書を追加して下さい。
第2次世界大戦末期の1944年9月、ナチス・ドイツへ亡命を強要されたフランス政府一同は、ドイツの南西部ジクマリンゲンに拠を構えます。
その後、事実上の臨時亡命首都になります。
ジクマリンゲンは、フランスの亡命政府関係者以外に知識層・旧陸海軍人・民兵・作家・農民・商人・医療従事者等を含めて国民も雪崩れ込んで行きました。
フランスに残った国民の方が圧倒的に多くいましたが、かつて第1次世界大戦の英雄であった「フィリップ・ペタン陸軍元帥」は1940年7月11日~1944年8月20日、「第3共和制(自由・平等・博愛)を否定し憲法的法律(家族・労働・団結)を制定」させてペタンを国父とした独善的大衆迎合主義体制へ移行させました。ペタンは、その国家元首の地位へ君臨して国家主席に就任しました。
【フィリップ・ペタン】
↓
フランスは、休戦協定として、ナチス・ドイツと締結しましたが、実際は事実上の敗北でした。連合国に属していたフランスは対する枢軸国ナチス・ドイツとイタリア王国に、国土の半分以上を占領または割譲されてしまいました。
しかしフランスは、独立国としてその地位を国際的に認められました。国際連盟を始め民主主義国家アメリカ、共産主義国家ソ連等英国以外の国々は国家承認して外交官を在留させました。
ナチスは、フランス3分2の国土を占領していたので、フランス政府は、首都の移転を余儀なくされました。臨時首都は、パリから南部の温泉都市「ヴィシー」に置かれました。
【ヴィシー】
↓
休戦協定の発行によりフランス陸軍は休戦監視軍として、10万の兵力へ削減されトゥーロン軍港に係留中の海軍は、フランス艦隊を存続することを可能としました。植民地の権限は引き続きフランス政府の管理下として継続しました。
フランス北部は、ナチス占領下で「自由の保証はなくかつて首都だったパリの在外公館は、首都の移転に伴いヴィシーへ外交官を移しました。ドイツの一部へ組み込まれたのでフランス政府は、パリに大使館を置き北部占領統治機関と折衝を余儀なくされました。ヴィシーを首都する南部地域は「自由地域」としてナチスの干渉を受けながらも独立国として、国際的に不動な地位を確立しました。
【フランス国(自由地域)】
↓
1942年、ナチス・ドイツは、フランスの自由地域全ての占領政策へ舵を切ります。休戦監視軍の解散。海軍の軍艦は、ナチス・ドイツ海軍へ譲渡せれる寸前の所をフランス海軍軍人等自らが自沈の道を選び海軍はその名誉を保ったのでした。
これによって、フランスは、国家としての地位を失い在留外交官の引き揚げは、年を追う事に増えて行きました。
1944年9月、ナチス・ドイツに強要されてヴィシーを放棄する日を迎えました。ペタンはあらゆる理由を付けてナチスの親衛隊に抵抗しましたが、親衛隊の部隊長も紳士的に振る舞い最後は、ペタン国家主席、スイス公使、バチカン大使と会談して当地の放棄を決定しました。
事実上の官舎として4年間住居としたホテルから引き揚げる際は、地元民が集まり「ペタン元帥万歳」三唱の流れの中、親衛隊の車両へ乗り込みました。ペタンを守護する護衛隊は、唯一の政府軍に相当する扱いを受けていましたが、即日解散してペタンに忠誠心のある一部の護衛官が引き揚げに同乗しました。
【ホテル】
↓
ペタン等一向は、ドイツの南西部ジクマリンゲンにある「ホーエンツォレルン城」へ拠を構えます。
城の尖塔には「フランス国旗(トリコロール)」が掲揚されました。
【フランス国旗】
↓
【ジクマリンゲン城】
↓
【ドイツ南西部ジクマリンゲン街】
↓
主要な内閣は城の中で公務を行いましたが、亡命して以降のペタンと首相のラヴァエルは一切の政治的な政策を拒否しました。
【ペタンとピエール・ラヴァエル首相】
↓
ナチスは、思惑を外されましたが、亡命政府を存続させる勢力「コラボシオン」は、ヴィシー時代同様に台頭しました。
1944年10月1日、ペタン元帥を国家元首、ラヴァエルを首相(二人は、名前や機関の関わりを一切拒否)とした「フランス政府委員会」を発足させます。
【フランス政府委員会(1944年10月1日~45年4月28日)】
↓
主な閣僚一覧
○主席代理兼内相:フェルナン・ド・ブリノン(侯爵)
○国防相:ユージェヌ・ブリドー(将軍)
○労働相:マルセル・デア(フランス国家連合党首)
○治安相:ジョセフ・ダルナン(民兵団(ミリス)隊長)
○情報・宣伝相:リシュール(ジャーナリスト)
○国務相:ポール・マリオン
【ブリノン主席代理兼内相】
↓
【ダルナン治安相兼民兵団(ミリス)隊長】
↓
【外交官一覧】
○ジクマリンゲン在留外交官:ドイツ大使オットー・アベッツ
○ジクマリンゲン在留外交官:日本大使三谷隆信
○ジクマリンゲン在留外交官:イタリア総領事
ブリノンが率いるフランス政府委員会は、フランス国内へ影響力を発信する事ができずドイツは、新たな勢力の台頭を欲しました。
フランス人民党党首のジャック・ドリオは、1945年1月6日、「フランス解放委員会」を設立。ド・ゴールの「フランス国民解放委員会」を張る名称を付けました。
【ドリオ委員長】
↓
【外交官】
○マイナウ島在留外交官オット・ライネベック大使
フランス解放委員会は、ジクマリンゲン南のボーデン湖畔のマイナウ島に移り、部下300人(家族約1千人含む)と活動を開始しました。
【マイナウ島】
↓
(マイナウ島)
【マイナウ島街】
↓
45年11月末ドイツ政府は、在留ジクマリンゲン大使アベッツを解任して、フランス解放委員会の拠点があるマイナウ島に「オット・ライネベック公使」を派遣し大使として在留させました。
ドリオ率いる「フランス解放委員会」は、強力な電波をフランス全土に送信しました。対ドイツ協力者の影響力拡大にかなり功を上げましたが、結局は遅きに失しました。
フランス政府委員会が解散する時、ペタン元帥は、フランスに戻る決意をします。既にシャルル・ド・ゴールが率いるフランス臨時政府がパリを解放して国家と国土は国際的にその主権を回復していました。
【シャルル・ド・ゴール】
↓
ペタンは、スイス国境でフランス軍に捕らわれます。他の関係者は三々五々に逃げ惑いますが後に逮捕され裁判に掛けられました。
フランスの歴史はこの「失われた4年間」を基本的に、現在でもタブーとしています。ドイツ同様にユダヤ人の迫害に手を貸していました。
今後、見直しが求められる時が訪れるか注目です。
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大佐の忠実なる影よりm(__)m
PS
写真は随時添付します。
因みに、ジクマリンゲン城は、ホーエンツォレルン城(別名シンデレラ城)の南西にあり見落とされがちですが、観光に最適な街なので一度は歴史に思いを馳せながら訪ねて見て下さい。
私は、歴史(日本史・世界史)が好きで以前よく調べていましたが、第2次世界大戦当時のフランス史も興味の一つでした。
Wikipediaに結構期待していたのですが、ほぼ更新されないのでこちらから情報を提供するのでどなたか以後の文書を追加して下さい。
第2次世界大戦末期の1944年9月、ナチス・ドイツへ亡命を強要されたフランス政府一同は、ドイツの南西部ジクマリンゲンに拠を構えます。
その後、事実上の臨時亡命首都になります。
ジクマリンゲンは、フランスの亡命政府関係者以外に知識層・旧陸海軍人・民兵・作家・農民・商人・医療従事者等を含めて国民も雪崩れ込んで行きました。
フランスに残った国民の方が圧倒的に多くいましたが、かつて第1次世界大戦の英雄であった「フィリップ・ペタン陸軍元帥」は1940年7月11日~1944年8月20日、「第3共和制(自由・平等・博愛)を否定し憲法的法律(家族・労働・団結)を制定」させてペタンを国父とした独善的大衆迎合主義体制へ移行させました。ペタンは、その国家元首の地位へ君臨して国家主席に就任しました。
【フィリップ・ペタン】
↓
フランスは、休戦協定として、ナチス・ドイツと締結しましたが、実際は事実上の敗北でした。連合国に属していたフランスは対する枢軸国ナチス・ドイツとイタリア王国に、国土の半分以上を占領または割譲されてしまいました。
しかしフランスは、独立国としてその地位を国際的に認められました。国際連盟を始め民主主義国家アメリカ、共産主義国家ソ連等英国以外の国々は国家承認して外交官を在留させました。
ナチスは、フランス3分2の国土を占領していたので、フランス政府は、首都の移転を余儀なくされました。臨時首都は、パリから南部の温泉都市「ヴィシー」に置かれました。
【ヴィシー】
↓
休戦協定の発行によりフランス陸軍は休戦監視軍として、10万の兵力へ削減されトゥーロン軍港に係留中の海軍は、フランス艦隊を存続することを可能としました。植民地の権限は引き続きフランス政府の管理下として継続しました。
フランス北部は、ナチス占領下で「自由の保証はなくかつて首都だったパリの在外公館は、首都の移転に伴いヴィシーへ外交官を移しました。ドイツの一部へ組み込まれたのでフランス政府は、パリに大使館を置き北部占領統治機関と折衝を余儀なくされました。ヴィシーを首都する南部地域は「自由地域」としてナチスの干渉を受けながらも独立国として、国際的に不動な地位を確立しました。
【フランス国(自由地域)】
↓
1942年、ナチス・ドイツは、フランスの自由地域全ての占領政策へ舵を切ります。休戦監視軍の解散。海軍の軍艦は、ナチス・ドイツ海軍へ譲渡せれる寸前の所をフランス海軍軍人等自らが自沈の道を選び海軍はその名誉を保ったのでした。
これによって、フランスは、国家としての地位を失い在留外交官の引き揚げは、年を追う事に増えて行きました。
1944年9月、ナチス・ドイツに強要されてヴィシーを放棄する日を迎えました。ペタンはあらゆる理由を付けてナチスの親衛隊に抵抗しましたが、親衛隊の部隊長も紳士的に振る舞い最後は、ペタン国家主席、スイス公使、バチカン大使と会談して当地の放棄を決定しました。
事実上の官舎として4年間住居としたホテルから引き揚げる際は、地元民が集まり「ペタン元帥万歳」三唱の流れの中、親衛隊の車両へ乗り込みました。ペタンを守護する護衛隊は、唯一の政府軍に相当する扱いを受けていましたが、即日解散してペタンに忠誠心のある一部の護衛官が引き揚げに同乗しました。
【ホテル】
↓
ペタン等一向は、ドイツの南西部ジクマリンゲンにある「ホーエンツォレルン城」へ拠を構えます。
城の尖塔には「フランス国旗(トリコロール)」が掲揚されました。
【フランス国旗】
↓
【ジクマリンゲン城】
↓
【ドイツ南西部ジクマリンゲン街】
↓
主要な内閣は城の中で公務を行いましたが、亡命して以降のペタンと首相のラヴァエルは一切の政治的な政策を拒否しました。
【ペタンとピエール・ラヴァエル首相】
↓
ナチスは、思惑を外されましたが、亡命政府を存続させる勢力「コラボシオン」は、ヴィシー時代同様に台頭しました。
1944年10月1日、ペタン元帥を国家元首、ラヴァエルを首相(二人は、名前や機関の関わりを一切拒否)とした「フランス政府委員会」を発足させます。
【フランス政府委員会(1944年10月1日~45年4月28日)】
↓
主な閣僚一覧
○主席代理兼内相:フェルナン・ド・ブリノン(侯爵)
○国防相:ユージェヌ・ブリドー(将軍)
○労働相:マルセル・デア(フランス国家連合党首)
○治安相:ジョセフ・ダルナン(民兵団(ミリス)隊長)
○情報・宣伝相:リシュール(ジャーナリスト)
○国務相:ポール・マリオン
【ブリノン主席代理兼内相】
↓
【ダルナン治安相兼民兵団(ミリス)隊長】
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【外交官一覧】
○ジクマリンゲン在留外交官:ドイツ大使オットー・アベッツ
○ジクマリンゲン在留外交官:日本大使三谷隆信
○ジクマリンゲン在留外交官:イタリア総領事
ブリノンが率いるフランス政府委員会は、フランス国内へ影響力を発信する事ができずドイツは、新たな勢力の台頭を欲しました。
フランス人民党党首のジャック・ドリオは、1945年1月6日、「フランス解放委員会」を設立。ド・ゴールの「フランス国民解放委員会」を張る名称を付けました。
【ドリオ委員長】
↓
【外交官】
○マイナウ島在留外交官オット・ライネベック大使
フランス解放委員会は、ジクマリンゲン南のボーデン湖畔のマイナウ島に移り、部下300人(家族約1千人含む)と活動を開始しました。
【マイナウ島】
↓
(マイナウ島)
【マイナウ島街】
↓
45年11月末ドイツ政府は、在留ジクマリンゲン大使アベッツを解任して、フランス解放委員会の拠点があるマイナウ島に「オット・ライネベック公使」を派遣し大使として在留させました。
ドリオ率いる「フランス解放委員会」は、強力な電波をフランス全土に送信しました。対ドイツ協力者の影響力拡大にかなり功を上げましたが、結局は遅きに失しました。
フランス政府委員会が解散する時、ペタン元帥は、フランスに戻る決意をします。既にシャルル・ド・ゴールが率いるフランス臨時政府がパリを解放して国家と国土は国際的にその主権を回復していました。
【シャルル・ド・ゴール】
↓
ペタンは、スイス国境でフランス軍に捕らわれます。他の関係者は三々五々に逃げ惑いますが後に逮捕され裁判に掛けられました。
フランスの歴史はこの「失われた4年間」を基本的に、現在でもタブーとしています。ドイツ同様にユダヤ人の迫害に手を貸していました。
今後、見直しが求められる時が訪れるか注目です。
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大佐の忠実なる影よりm(__)m
PS
写真は随時添付します。
因みに、ジクマリンゲン城は、ホーエンツォレルン城(別名シンデレラ城)の南西にあり見落とされがちですが、観光に最適な街なので一度は歴史に思いを馳せながら訪ねて見て下さい。