平成7年(1995年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災から26年になりました。
【阪神・淡路大震災】
↓
時の首相は、「村山富市」氏
【村山富市】
↓
野党に転落中の自民党が天皇制や自衛隊反対の立場の日本社会党と「禁じ手」の連立政権を樹立させた直後の大震災。
前年末に誕生したばかりの野党の新進党は、『明日の内閣』を立ち上げて大阪支部の事務所を最前線の夜戦指揮所として立ち上げました。
【阪神・淡路大震災】
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時の首相は、「村山富市」氏
【村山富市】
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野党に転落中の自民党が天皇制や自衛隊反対の立場の日本社会党と「禁じ手」の連立政権を樹立させた直後の大震災。
前年末に誕生したばかりの野党の新進党は、『明日の内閣』を立ち上げて大阪支部の事務所を最前線の夜戦指揮所として立ち上げました。
国会では、海部俊樹元首相が党の代表を務めるので、明日の内閣の閣議で閣僚か政務次官(当時)を現地に行かせることは出来ないかと苦心した。
そのやり取りが後に刊行する野田毅元自治相の一冊の本から読み取れる(興味ある方Amazonで検索を)野党は頑張ってたと思う。ハッキリ言って肩入れしてます。村山首相でなくて海部さんが首相なら「たられば」言っても仕方ないですけどね。
阪神淡路大震災の死者6434人。
以前にもブログで書きましたが、「総理公邸のテレビにかじりつきながら、他人事の様に「こりゃ~大変じゃのう~」」と言っていたと言う逸話は有名です。
最高指揮官たる村山富市・首相(当時)が素早く自衛隊を展開させていれば死者の数がこれ程迄になることはなかった事でしょう。
残念ながら村山連立政権が樹立される過程で自民党内も右往左往。
前年に羽田連立政権(少数与党)が瓦解して、日本社会党の動き一つで与野党の逆転が可能な状態でした。
野党の自民党は「首相のイス」を、社会党に差し出して与党への復帰を企み…与党の羽田連立政権は、小沢一郎さんを中心に自民党の海部俊樹・元首相を担ぎ上げて新な政権を自民党も巻き込んで樹立しようと画策していました。
そんな国民そっちの気な事を国会で展開しながら首相指名決選投票で誕生したのが村山連立政権(社会党・自民党・新党さきがけ)です。
だからまともな政権運営が出来ないのは当たり前です!
自民党の総理大臣ならまた別の展開があったかも知れませんが、もうすぐ26年の時が流れようとします。
平成23年(2011)3月11日は、菅連立政権(民主党・国民新党)でした。
阪神・淡路大震災は政権与党の一角として自民党が、村山最高指揮官の尻を叩いて自衛隊や当時まだ団体としての認識の広がりも薄かったNPOやボランティアを共に連携して少しずつ体制を整えて行きます。
海外からの各国(NGOも含む)支援は、一度断りました!
残念な事に当時の日本人(政府)は「島国根性」が強く事の重大さの認識は甘く自己完結可能と信じていました。
しかし結局は全てが後手に回り各国からの支援を受け入れます(NGOも入ります)
しかし入国審査でも更にもたつき救えた可能性のある命は次々にその鼓動を停止して逝きました。
「命のタイムリミットは72時間です」
これを越えると限りなく死亡率が高くなります。
こんな当たり前の事も当時の政府は一部の方しか知らなかったのでしょうね。
トリアージも当時は存在しなかった。
命令がないまま座して動けない自衛隊は、連絡事務所地域や駐屯地地域の市街地住民を救うべく「法律」に引っ掛からない様に出来る範囲で動いていました。
最高指揮官(司令官)の命令がなければ動けないのが自衛隊(軍隊)です!
軍隊は民主主義社会ではありません!
上からの命令がない限り勝ってな行動は許されません。
陸上自衛隊の場合は、分隊長→小隊長→中隊長→大隊長→連隊長→師団長→幕僚長→(統合幕僚会議議長(当時))→防衛庁長官(当時)→最高指揮官。
3・11では自民党は完全に下野でした。
自衛隊の最高指揮官は民主党代表の菅直人・総理です。
マグニチュード9・0。そして津波さらに福島第一原発に於けるメルトダウン。
北澤俊美・防衛大臣(当時)は段階的にではありますが述べ10万6000人迄、自衛隊を展開して政府は、各国からの支援も素早く受け入れた(入国の持たつきも阪神淡路大震災の時に比べれば天と地ほど)
自衛隊発足初の「統合任務部隊(JDF)」も編成しまた!!
アメリカ軍が「トモダチ・オペレーション」を展開!
ここに「日米同盟」がある事に多くの国民は感謝したはずです!
きしくも沖縄在米海兵隊の東北での活躍が伝わると沖縄県民は複雑な気持ちになったでしょう…。
さて話を基に戻して、阪神淡路大震災は来年20年を迎えます。
村山富市・元首相が当時どんな想いで指揮していたのか…。
「真実を」
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[追伸]
遺族の方々へ哀悼の哀悼の意を捧げます。
阪神淡路大震災の死者6434人。
以前にもブログで書きましたが、「総理公邸のテレビにかじりつきながら、他人事の様に「こりゃ~大変じゃのう~」」と言っていたと言う逸話は有名です。
最高指揮官たる村山富市・首相(当時)が素早く自衛隊を展開させていれば死者の数がこれ程迄になることはなかった事でしょう。
残念ながら村山連立政権が樹立される過程で自民党内も右往左往。
前年に羽田連立政権(少数与党)が瓦解して、日本社会党の動き一つで与野党の逆転が可能な状態でした。
野党の自民党は「首相のイス」を、社会党に差し出して与党への復帰を企み…与党の羽田連立政権は、小沢一郎さんを中心に自民党の海部俊樹・元首相を担ぎ上げて新な政権を自民党も巻き込んで樹立しようと画策していました。
そんな国民そっちの気な事を国会で展開しながら首相指名決選投票で誕生したのが村山連立政権(社会党・自民党・新党さきがけ)です。
だからまともな政権運営が出来ないのは当たり前です!
自民党の総理大臣ならまた別の展開があったかも知れませんが、もうすぐ26年の時が流れようとします。
平成23年(2011)3月11日は、菅連立政権(民主党・国民新党)でした。
阪神・淡路大震災は政権与党の一角として自民党が、村山最高指揮官の尻を叩いて自衛隊や当時まだ団体としての認識の広がりも薄かったNPOやボランティアを共に連携して少しずつ体制を整えて行きます。
海外からの各国(NGOも含む)支援は、一度断りました!
残念な事に当時の日本人(政府)は「島国根性」が強く事の重大さの認識は甘く自己完結可能と信じていました。
しかし結局は全てが後手に回り各国からの支援を受け入れます(NGOも入ります)
しかし入国審査でも更にもたつき救えた可能性のある命は次々にその鼓動を停止して逝きました。
「命のタイムリミットは72時間です」
これを越えると限りなく死亡率が高くなります。
こんな当たり前の事も当時の政府は一部の方しか知らなかったのでしょうね。
トリアージも当時は存在しなかった。
命令がないまま座して動けない自衛隊は、連絡事務所地域や駐屯地地域の市街地住民を救うべく「法律」に引っ掛からない様に出来る範囲で動いていました。
最高指揮官(司令官)の命令がなければ動けないのが自衛隊(軍隊)です!
軍隊は民主主義社会ではありません!
上からの命令がない限り勝ってな行動は許されません。
陸上自衛隊の場合は、分隊長→小隊長→中隊長→大隊長→連隊長→師団長→幕僚長→(統合幕僚会議議長(当時))→防衛庁長官(当時)→最高指揮官。
3・11では自民党は完全に下野でした。
自衛隊の最高指揮官は民主党代表の菅直人・総理です。
マグニチュード9・0。そして津波さらに福島第一原発に於けるメルトダウン。
北澤俊美・防衛大臣(当時)は段階的にではありますが述べ10万6000人迄、自衛隊を展開して政府は、各国からの支援も素早く受け入れた(入国の持たつきも阪神淡路大震災の時に比べれば天と地ほど)
自衛隊発足初の「統合任務部隊(JDF)」も編成しまた!!
アメリカ軍が「トモダチ・オペレーション」を展開!
ここに「日米同盟」がある事に多くの国民は感謝したはずです!
きしくも沖縄在米海兵隊の東北での活躍が伝わると沖縄県民は複雑な気持ちになったでしょう…。
さて話を基に戻して、阪神淡路大震災は来年20年を迎えます。
村山富市・元首相が当時どんな想いで指揮していたのか…。
「真実を」
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[追伸]
遺族の方々へ哀悼の哀悼の意を捧げます。
[このブログは何度か更新された文書を、25年目の節目に合わせて更に手直しました]