入院中だった母が今朝亡くなりました。
肺炎になりかけている→酸素を使う→熱は下がったが呼吸が浅くなってきたので再度酸素を→という事だったのを姉から知らされていたのですが、やはり状態が芳しく無かった様子で、6月1日のAM3時頃に姉の方に呼び出しがかかり、今朝亡くなりました。 自分は眠剤で爆睡していたので朝に義兄からの電話で飛び起きて、丁度休みだったNくんに送迎して貰い自分の通院と入院していた病院へ。移動手段が少ない場合だと多分下記する様に遺体との対面すら出来なかったと思うと、こういう時のタイミングは凄まじく良い私。 今回は姉夫婦に任せてあるので病院での殆どの手続きは終わっていた様子で、ギリギリ間に合って遺体と対面出来たのが自分的には唯一の救いかもしれません。役所での最低限の手続きもやってくれるとの事で今回は殆ど全面的に姉夫婦に任せる事にしました。 享年81歳、今年の七夕になれば82になっていました。 やはり肺炎二回目は耐えられなかったみたいで、肺炎による呼吸不全という死亡診断でした。 全く面会に行ける精神状態じゃなかったのと、元々病院嫌いの母になんて言葉をかけたらいいのかわからずにいました。 私が最期に聞いた母の言葉は、老健が唐突に閉鎖になる知らせと共に系列の病院なら移動に費用がかからないのでその病院へ入院する際に、「病院かい……」 と、嫌そうな顔をしていたのが最期の記憶です。 本音を言えば、祖母の時みたいに出来る事なら自分で看たかったし金銭に余裕があるならば他の施設へ移す事も出来たけれども、自分も金銭的にも精一杯になってしまっていたのでどうしようもない状態だったので周りは、しょうがない、と言いますし、自分も頭では理解しているのですが、どうしようもないと解っていても心残りの一つかもしれません。 入院直後(多分、施設が無くなる時に段々と人がいなくなっていくのが寂しかったからうつ病にはすでになっていたのではないかと思うけれども)うつ病も相まって食事を取らない→動けなくなってしまい寝たきりに、という状態に陥ってしまい余計に看る事は出来ない状態になってしまったので、申し訳なさなどもあったりします。 お母さんごめんね、と対面した時に心の中で思っていました。もし自分が定期的にでも不定期にでも面会に行ってたらここまで酷くならなかったのかもしれないとか、色々と後悔もあったり、自分の状態的にどう声をかけていいのかわからない、という気持ちのせめぎ合いがずっとありました。 認知症になってしまい自分も限界がきた時に施設へ行くバンが迎えに来た時も本人は寸前まで忘れて理解しておらず、訳がわからない状態で行ったのだろう、もしかしたらよくわからない状態で怖かったかもしれないとか色々と考えてしまいます。何せ家にいたい、と最期まで言ってたのを何度も説得し、忘れてしまいそれで家にいたいと言い出しまた説得するというのを繰り返していました。 施設(老健)にいた頃は、まだ自分も外に出るのに抵抗が少ない状態だったので面会に行った事がありますが、その時には、穏やかに過ごせている様子で安心していました。あのままあそこにいれば、多少身体を動かすようなレクもあったしここまでの状態にはならなかったのではないだろうか、などとも思ってしまったりします。 同じような老健を探してそこに移動してもらったりすれば良かったのか、と後の祭りですが、そういう後悔もあったりします。 そして、父の時もそうでしたが、母は人生に満足して逝けたのだろうか、そう考えてしまいます。 意外と母は波乱万丈な人生を送ってきたみたいで昔は結構アクティブな人で、道内を転々としていたみたいです。 地元で育ってから私からみて祖母ですが折り合いが悪かったようで家を出て札幌にいたり、襟裳〈えりも〉にいたりとしたみたいです。 私が産まれてからは地元に戻って定住したのですが、自分が夜のお仕事をされている女性に対して偏見が全く無いのも母が幼い姉を育てる為に酒が呑めない人なのに気合いと根性でスナックで働いたりと色々と夜の仕事をしていた話を聞いていたからです。 私の思い出といえば、一番覚えてるのが幼少期に何かしら悪い事をしてしまい家から数分出されたり(今なら虐待ですがそういう時代でした笑)中学生の頃にいじめられた時に、「辛いなら学校にいかなくてもいい」 と、言ってくれたり、結局、自分でよく考えて「そもそも勉強をする場所なのだから勉強をしていればいい」と気持ちを切り替えて通い英語の成績がぐんと上がったり……。 自分が札幌の専門学校に通っている時に寂しかったのか、訪問販売きた若者が自分と似たような背格好と年齢でつい絆されて無駄な買い物してしまったりと寂しがり屋な所もあったりする母でした。確かクーリングオフができる前だったと思うので泣き寝入り状態でした……。 自分は社会人ドロップアウトな人生になってしまった親不孝者かもしれませんが、決して責める事も無く(甘い親と言われたらそれまでですが)時に笑い合い色々と喧嘩したりも沢山したけれども、悪くない母でした。 母の遺体に対面はしたものの、今はぶっちゃけ実感が湧いていない状態で、姉たちがやってくれた手続きの他にも色々と自分でやらなきゃいけない事があるので暫くは気を張った状態が続きそうです。 最後に、 ――お母さん、色々と迷惑かけたけどそれでも一所懸命育ててくれてありがとう、アホな愚息でごめんなさい、81年お疲れ様でした。そして、また数十年後に会えたら会いましょう――。