最強のスタッフ

 

こんにちはおねがい

松江の行政書士&ファイナンシャルプランナーの小室寿明ですグラサン

 

川本で基本的に穏やかに過ごしていましたが、1989年の暮れに邑智支部を訪ねてこられたのが勝部洋一さん(後の委員長)。

「おまえさん、副委員長をやってくれんか」という話で、当時29歳の私は、「職場で仕事をしながらの副委員長は荷が重い。専従ならやりますが…」といつもの調子で安請け合いをしたところ、「それなら書記長に」ということでまた松江に赴任することになりました。

 

妻は(今はもうない)能義保健所に転勤となり、松江との中間どころにある妻の実家の東出雲町に居候を決め込みました。

そうこうするうちに次男も生まれ、妻はそのまま育児休業に。

 

私はといえば、県職労書記長は島根県を動かすともいえる重要な任務でしたが、幸い同世代の平岡昇(現・健康福祉部次長)、古川輝雄(後の副委員長)、柘植日出夫(後の自治労県本部委員長代行)、長野正巳(後に副委員長)などの専従スタッフに恵まれ、それぞれが分担する任務の進行管理が私の役割で、「どうなっとるかいね~」でだいたい終わったものです。

 

プラス、委員長は門脇誠三さん(後の県議)、副委員長は勝部洋一(後の委員長)、八幡為夫さん(後の県職員退職者会事務局次長)とそれぞれに県職労の歴史をつくってきた人たち。

対外的なことも含め、最強のスタッフで各種取り組みに臨みました。

 

そうした中で、今に残る「5者共闘」は私の発案。

自治労島根県本部との共同で人事委員会との交渉などを行っていましたが、高教組、日教組しまね、学事労の5者で取組む現在のスタイルをつくりました。

独自に交渉を持っていた高教組はさほど有り難みもなかったかと思いますが、全く交渉の窓口がなかった日教組や学事労には喜ばれたものです。

 

▲一時金の傾斜配分問題で5者共闘による人事委員会交渉(中央が小室)。

 

そうこうするうちに、翌年に迫った県議会議員選挙の組織内候補を誰にするかの擁立作業が大詰めに。

組織内県議の岩本久人さんの参議院転出で空白となっていた県議会議席の確保は、県職労にとって至上命題でした。

 

「盆前には決めなければ!」という雰囲気でしたが、東出雲町在住の私には全く無縁の課題で、「候補者はたくさんいる」と安閑としていました。

が、しかし、徐々に世代交代が大きなテーマとなり、最終的に私にお鉢が回ってくることになります。

 

マイヒストリー、続きますチュー

 

 

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