2024.6.17

この物語はフィクションです。少なくともそう思った方が読み進められると思います。これは全国各地で祈りを捧げ続けた一人の人間が、世界各国のお話を都合良くつなげただけの物語。

 

 

序章 ~セグロウミヘビとウサギ~

 

紀元前711年2月13日、イザヤは主に言われ、契約の箱と米を持って天津国(アマツクニ)を旅立った。十支族を連れ、海沿いの国々というものを目指し、船で。最初に降り立った島の名は古宇利。彼らはそこで国生みを始めた。コオロコオロと。だがそれは失敗する。黒潮に乗って北上し次に降り立った島の名前は沼。次に淡路。その島には縄文という民族が住んでいたのだが、イザヤたちは歓迎され神として崇められた。そう、イザヤから名前を取ってイザナギとイザナミの男女神として。イザヤが引き連れてきた十支族のうちダン族は蛇の紋章だったのだが、これが都合良かった。縄文の人々は蛇を信仰していたからである。こうしてイザナギとイザナミはもう一度国生みを始めた。淡路・四国・伊島・九州と。まるで何かを探すかのように。契約の箱はいったん剣山に祀った。

やがてイザナギとイザナミの孫であるニニギが紀元前660年に高千穂峰に矛を突き立て、この地が天津国からの降臨場所であると定める。イザナギとイザナミが探していたのは天津国に存在した神殿と同じ緯度の山だったのだ。ニニギはさらに水源を求めて移動した。天津国から持って来た神聖な米(水稲)を育てるためだ。北上し高千穂峡にて神聖な水源を確保すると、その水をマナイと呼んだ。イザヤたちが米のことをマナと呼んでいたからである。この神聖な食べ物を調理するための板がマナ板だ。ニニギの代から三代に渡ってこの地で水稲を拡めたので日向三代と呼ばれる。その次の代のカムヤマトイワレビコの時には対馬海流に乗って移動し、壱岐・対馬・佐渡。それから戻って隠岐。兎として遂に本州の因幡に上陸し、一気に大和まで進み契約の箱をミモロ山に祀った。この本州までの古宇利からのルートが古事記に国生みの順番として描かれることになる。海上で黄金に光ると言われるセグロウミヘビが出雲大社の神の使いとされているのは対馬海流に乗ってやって来る姿をカムヤマトイワレビコに重ねたからである。水稲と共に移動する彼らによってこの島国は縄文時代から弥生時代への幕明けとなっていく。渡来したこの一族が千年以上生き残った理由は、初めから神として崇められていたからだ。このイザナギとイザナミの子孫は磐座を信仰する月の民であり、彼らにとっての神は主だけである。なお当時この国に広まった彼らの信仰はのちに古式神道と呼ばれた。つまり唯一神。常に雲の中にある主からこの国を授けられたので、彼らはこの国のことを出雲と呼んだ。彼らの出雲統治はそれから八百年以上に及ぶため、それをまとめて根の国と古事記に表記している。その間にこの出雲という名の国で使用された言語はヘブライ語。少なくともこの神と崇められた一族はそれを使っていた。であり、他に彼らがもたらしたものとしては相撲がある。

イザヤは月の民にとあるルールを課さなければならなくなった。それは契約の箱を絶対に開けてはならないというものである。イザヤは最初知らなかったからだ。箱の中に入っているはずの二枚の石板が、そこにはないということを。これこそが出雲国にやがて起こる国譲り物語の核心であり、八百年の時を経て中身の入っていない玉手箱を開ける浦島の物語として語り継がれることとなる。

王族ユダ族ではない統治など認められるはずもなく、ダン族スサノオやオオクニヌシを中心に造った出雲という月の島国の歴史は出日というユダ族の太陽の歴史として塗り替えられ、左回りのイザナギと右回りのイザナミは左目の天照大御神と右目の月読神として書き換えられることとなる。

そして契約の箱が天津国を旅立った日が初代神武天皇誕生日。ニニギが矛を突き立てた年が皇紀元年・神武天皇即位紀元となった。

さらに古宇利での出来事が琉球各地にアダムとイブのような物語を残す結果となっている。

 

第一章 ~アダムとイブAとイブB~

 

神は土のちりで自分のかたちに男と女を創造した。これがアダムとイブAである。日本においてイザナミAとは左回りのイザナギと右回りのイザナミBとの間にある柱という存在。つまり菊理媛のことである。それは左目の天照大御神と右目の月読神の間にある鼻でもあり、スサノオとも呼ぶ。ヤマタノオロチ、つまり九頭竜を倒したスサノオだ。菊理媛と九頭竜のつながりはここからである。岬のことを鼻と呼ぶのも。

 

また神は男のあばら骨で女を造った。これがイブBである。イザナギとイザナミBは互いの余った部分と足りない部分を結合して神生みをする。イブBとはエデンの果実を食べてチシキが付き追放された女性。チシキの大神と呼ばれるイザナミBは黄泉の国のものを食べたので帰れなくなる。これがヨモツ大神。月読神のことである。なお天津国の家系図を元に古事記の家系図を作成した場合、月読は不在となる。この存在は非常に面白い。右目の奥が黄泉の世界。ソドムとゴモラなのだ。埼玉のツキ神社に片目の伝説があるのもこの為。

 

第二章 ~アブラハムとサラ~

 

天津国にアブラハムとサラという夫婦がいた。天竺の物語ではブラフマーとサラスバティである。ご存知のように水の女神サラスバティーはイチキシマ姫のこと。つまり弁財天です。日本仏教でも弁財天の御真言はオン・サラスバティー・エイ・ソワカである。

天津国でなかなか子供の生まれないサラはハガルという女性にアブラハムの子供を生ませ、イシマエルという名前を付けた。やがてサラにも子供が生まれると、サラの嫉妬によりイシマエルとハガルは追放される。イシマエルを除いたアブラハムの子供はその後七人となる。これが七人の子という歌のタイトルとなるのだ。陽気なメロディーとは裏腹な内容なのが逆に恐ろしい。イチキシマ姫、つまり弁財天が嫉妬すると言われるようになったのは、このサラの嫉妬から来ている。なお、イチキシマ姫は宗像三女神の一柱。追放されたハガルを含めたアブラハムの妻三名が宗像三女であり、追放されたハガルは遠方に祀られるオキツシマ姫のことである。タギリ姫とも呼ぶし、スセリ姫でもある。なお、イチキシマ姫は星座で言うと白鳥座になります。弁財天に財運が付与されるのは、白鳥座が天上の宝石と呼ばれるアルビレオを持つから。また宗像三女はスサノオの娘なので、弁財天イチキシマ姫は白蛇でもあります。

 

第三章 ~ヤコブと天使~

 

アブラハムの孫にあたるヤコブはある夜、天使と格闘して勝ちます。天使に勝利したヤコブはイスラエルと名乗ることを告げられます。このヤコブの12人の子供がイスラエル12部族の祖となるのですが、この天使との格闘が相撲の起源なのです。天使とは天の使い、つまり日本では龍にあたります。龍と格闘したのは誰かというとスサノオです。スサノオが手に入れたのはクサナギの剣。剣とは名。つまりこれこそがイスラエルの名。言い換えるならば王族の名です。実は酒を飲ませてヤマタノオロチを退治する話こそが日本の相撲の起源となっているのです。クマと相撲する金太郎が赤い龍の子と言われるのも、後に坂田金時と名乗って酒を飲ませて酒吞童子を退治するのも、スサノオから来ているのです。マサカリがクサナギ。桜井市出雲地区の相撲の始祖ノミノスクネもスサノオのこと。あそこがヒの河の川下です。これは後述します。

天使と龍。あまりピンと来ないかもですが、彼らはそもそも物理的な肉体を持っていません。人が創造した姿に合わせて出てこないと、それとして認識されないからそういう仮の姿で現れるだけのこと。西洋だとか東洋だとかの区切りは人間たちの世界で勝手に決めたもの。なんなら天使に翼が生えたのなんて相当後の時代です。

 

第四章 ~ダビデとミカル~

 

ヤコブの12人の子。つまり12部族。のうちユダ族が王族となります。これは決まりです。ソロモン王やキリストもユダ族です。そしてダビデ王も。羊飼いだったダビデは袋を担いで登場します。兄たちに食料を運んで。これが袋を担いで兄たちの後を歩くオオクニヌシとして古事記に描かれ、同時に因幡の白兎としても描かれます。ダビデは巨人ゴリアテを倒したことでヒーローとなり美女ミカルと結婚するのですが妬みから2回殺されそうになり、ミカルによって無事に逃がされました。オオクニヌシはヤガミ姫と結婚するのですが妬みから2回殺され、別名のヤガミ姫によって逃がされます。ダビデ王は特に重要であり崇神天皇としても描かれます。ダビデの町シオンに契約の箱を祀ったという内容。これをオオクニヌシがミモロ山に祀ることと、崇神天皇がミワ山に祀ることと、古事記上巻と中巻にそれぞれ書いてあるのは、基本的には上巻が天津国での出来事。中巻は上巻を遷したもの。コピーであり全部名前を変えて日本での出来事としているからなのです。なお、祀られているオオモノヌシの正体は白蛇です。分かり易い例を出すと、上巻のスサノオ(ヤコブ)とオオクニヌシ(ダビデ)とタケミナカタ(ソロモン)を足したものが中巻のヤマトタケルとなります。なのでヤマトタケルも酒を飲ませて敵を倒し、名を貰うということが出てくるのです。

日本最初の和歌とされるスサノオの歌とヤマトタケルの歌を紹介します。

八雲タツ。出雲ヤエガキ。ツマゴミニ。

ヤツメサス。出雲タケルガ。ハケル太刀。

日本の国旗である日の丸。実は赤い月だったりもします。そして、ダビデを表す赤い目の白うさぎでもあるのです。

 

第五章 ~ユディトとホロフェルネス~

 

ヤマトタケルが酒を飲ませて敵を倒す時、女装したのには、美しい女性であるユディトが何万というホロフェルネスの軍団に挑み、酒を飲ませてたった一人でホロフェルネスの首を取った事が含まれるからです。地の面を埋め尽くすほどと描かれるホロフェルネスの軍勢はその長さ谷八つ峰八つと述べられるヤマタノオロチの姿でもあるのです。

 

第六章 ~ソロモン王とシバの女王~

 

ダビデ王の息子であるソロモン王の建てたのがソロモン神殿。第一エルサレム神殿でもあります。神武天皇崩御年と同年の紀元前586年に破壊され、キュロス2世の時代紀元前516年に第二神殿が再建された。しかしこれも西暦70年に破壊される。ソロモン王を表す垂仁天皇の崩御年と同年であり、この翌年に日本に「タチバナ」が受け継がれる。後述します。

ソロモン神殿建立の際にレバノン杉を運んだ名残が、諏訪大社における御柱祭として残っているのはご存知の方もいらっしゃると思います。諏訪大社の御祭神がソロモン王を表すタケミナカタです。

さて、このソロモン王の元に幾つかの難題を携えて訪れたのがシバの女王。難題を与えるという点において、実はかぐや姫のモデルなのです。古事記でも垂仁天皇の妻に迦具夜姫が描かれているのですが、一番興味深いのは垂仁天皇が紀元前紀元後をまたぐ点。つまりキリスト誕生年と被るところです。何が興味深いかというと、同時期に存在するかぐや姫とキリストは共に男女の性交と関係なく生まれる。ということ。ちなみに伊勢神宮の創祀とキリスト誕生は同年で紀元前4年です。

ソロモン王亡き後、王国は一角獣の紋章北イスラエル王国と獅子の紋章南ユダ王国へと分裂する。バビロニアによって何もかもを奪われることを知ったイザヤが契約の箱を持って旅立ったのはそれからである。紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡してから11年後のこと。この滅亡した民の行方が謎とされ、失われた十支族と呼ばれるようになる。契約の箱と共に行方が分からないからである。なお、イザヤが旅立ったあとは、神聖なる箱という別名になる。

 

第七章 ~ユディトと女王トミュリス~

 

ユディト記によればホロフェルネスの軍勢を送り出したのはアッシリアの王ネブカドネツァルとあるのだが、史実によるとネブカドネツァルはバビロニアの王である。そしてこれを滅ぼしたのがペルシア。第二神殿を再建したキュロス2世である。

ユディト記は史実と異なるとされているのだが、女性・酒・敵を倒す。この3点だけを考えると、興味深い接点が見つかる。

キュロス2世はバビロニアを滅ぼした後、カスピ海の東に住むマッサゲタイという民族を制圧するための戦を仕掛けた。この時のマッサゲタイの王はトミュリスという女性。キュロスは騙し討ちをし、マッサゲタイの兵士を酒に酔わせて襲い掛かった。この時トミュリスの息子である軍隊長スパルガピセスが自決している。

トミュリスは再戦を仕掛けてペルシア軍を撃滅。キュロスの遺骸を探し当て、その首を革袋の中へ投げ込む。ユディトもホロフェルネスの首を袋に入れて持ち帰ったため、この女性2人を描く絵画はどうしても共通するものがある。

 

第八章 ~ユディトとサロメ~

 

生首を持つ女性の絵画として、もう一人忘れられないのがサロメ。王の前で踊りながら一枚づつヴェールを脱いでいき、裸で踊ったサロメだ。七つのヴェールとして歌劇にもなっている。褒美を授けると言う王に対して彼女が求めたのは、ある男の生首。日本では裸で踊ったウズメとして古事記に描かれる。彼女がナマコの口を斬るのも、猿田彦と結ばれてサルメとなるのも、サロメから来ている。古事記に描かれるアメノウズメや猿田彦が、他の神々と異なり家系図がない理由は、サロメがここまで述べた人物とは異なり、紀元後の人物。つまり新約聖書での登場だからである。なおウズメは天岩屋戸の前で踊るのだが、あの時に岩屋戸の前に集まった神々が何をしているのかというと、かぐや姫が与えた難題の答えを出しているのです。仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣。これらが次々と岩屋戸の前で提出されて行きます。玉の枝を造った鍛冶職人が誰かすらも分かります。最後にウズメが裸で踊るのですが、その理由はツバメの子安貝を表す為です。何が貝なのかは想像して下さい。ではそもそもなぜ岩屋戸の前でかぐや姫の難題の答えが提出されて行くかと言いますと、岩屋戸の中にいるのは月に還ったかぐや姫だからです。迎えに来た月の民に羽衣を着せられて記憶を失くしたかぐや姫。彼女の辿り着いた先が真っ暗な岩屋戸の中。自分の顔すらも記憶にないので鏡に映る自分の姿も分からなかったのです。ちなみにこの難題の答えは記憶を失くしたかぐや姫に見せているのではありません。記憶のある私たちにです。無理矢理引っ張り出されて天照大御神という名前を与えられたかぐや姫。天照大御神が実は太陽神ではなく月の神だということ、日の丸が赤い月だと言ったこと。まんざらでもないことが段々お分かりいただけますでしょうか?鬼舞辻無惨が女装していたことにもつながります。さらにここで大事なことをお伝えしておきます。古事記の岩屋戸の場面を見直すのならついでに、ある不自然な行動に注目して下さい。天照大御神が岩屋戸から出たあと、岩屋戸に何かを封印しているかのような動作が描写されます。瀬織津姫です。あれは名前交換の儀式である。とだけ、ここでは述べておきます。

ちなみに難題の一つ。龍の首の珠。これだけは別の場面で別の姿の同じ女性に差し出します。豊玉姫の前に現れた山幸彦の首にある珠です。実は古事記には龍という文字が登場しません。有名な龍ですらオロチと描かれます。このように秘密裏に山幸彦を龍と表す理由。それは皇族が龍であることを暗に示しているのです。龍の一族とは劉の一族なんです。これも後で述べましょう。

 

第九章 ~十支族と12部族~

 

さて、前述したようにイザヤは紀元前711年に契約の箱を持って十支族を連れて海路で旅立ちました。ではこの時、石板はどこに行ったのかというと、陸路を選んだ12部族が手にしていたのです。これがカスピ海の東に住んだマッサゲタイという民族。つまり女王トミュリス。この月の12部族は紀元前6世紀にキュロス2世を倒したあとさらに東へ進み、紀元前3世紀には月氏(ゲッシ)という国家を形成する。モンゴル高原から天山北麓、ヒスイの産地であるタリム盆地に至る広大な地域を有した。この月氏と隣接していたのが春秋時代の秦である。秦の歴史は紀元前905年からと長い。匈奴のように実際この時代は王子を人質として出すようなこともあった。両国に戦の記録がない以上、外交として月氏の娘が秦に嫁ぐ話があったとしても何の不思議もない訳だ。何を言いたいか分かると思います。その後紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝やその後の秦氏に、月氏の血が含まれる可能性は大いにあり得る。また始皇帝を助けた、秦より西に広がる山界の民族の王。楊端和(ヨウタンワ)。これがおそらく小月氏の女王。

月氏は紀元前2世紀には匈奴に敗れて二手に分かれ、天山山脈のイシククル湖付近の大月氏(ダイゲッシ)。羌族と合流して小月氏(ショウゲッシ)となっていた。

羌瘣(キョウカイ)と呼吸法の鍛錬による巫舞(ミブ)。これらはやがて日本へつながります。

ちなみに蚩尤(シユウ)とは牛の頭を持つ神。初めて反乱というものを行ったとされる。古事記でいうところのスサノオにあたり、牛頭天王でもある。

 

第十章 ~劉細君と水鳥~

 

紀元前161年。大月氏は烏孫(ウソン)によってイシククル湖周辺を追い出され、トハリスタンに落ち着く。この大月氏と同盟を組むため、紀元前139年に前漢の武帝より派遣されたのが張騫(チョウケン)である。この時の大月氏の王も女王である。またチョウケンは烏孫とも同盟を結ぶべく、皇族の娘・劉細君を嫁がせた。拠点の赤谷城で生活したとされる彼女は悲愁歌を残している。「黄色い鵠(クグイ・水鳥)になって故郷に還りたい。」彼女は高齢の烏孫王とその息子とも結婚させられ、子を儲けた。彼女の遺したこの想いが陸路を選んだ12部族の使命となる。

なお、チョウケンのこの同盟の旅路がのちにシルクロードとなってゆく。

紀元前39年以降。大月氏は安息パルティアに侵入。天竺を滅ぼした。この政権がクシャーナ朝。中国ではこれも大月氏と呼んでいる。クシャーナ朝の彫像には、月のシンボルが多く見出される。

大月氏を追い出したイシククル湖周辺の烏孫は5~6世紀に何故か突然姿を消し、7世紀から10世紀の唐の史書には赤谷城ではなく弓月城が現れる。

 

第十一章 ~項羽と虞美人草・赤いヒナゲシ~

 

京劇・覇王別姫でも有名な虞美人と、覇王を名乗った項羽。

始皇帝が死去したあと、秦を滅ぼした楚の項羽と漢の劉邦が争って、劉邦が漢を建国する。

紀元前202年、四面楚歌で追い詰められ死を覚悟した項羽は、その夜に酒を飲みながら、愛する虞へ歌を歌う。「我が力は山をも動かし、我が気迫は世界をも覆うほどに強大だが、我が愛馬は進もうとしない。馬が進まないのにいったい何が出来るというのか。虞よ、虞よ。お前をどうしたらよいか」

その歌に合わせて虞が舞う。

舞った後に自殺する。彼女を葬った墓には赤くヒナゲシが咲いた。これが虞美人草と呼ばれるようになる。

 

白い猪の大氷雨で惑わされたヤマトタケルは歌う。「私の心はいつも空を飛んで行くと思われたが、今は歩くことが出来なくなって、足がたぎたぎしくなる。」

ミヤズ姫がお酒盃を捧げて参る。そのミヤズ姫には既に血が付いている。ヤマトタケルは歌う。ミヤズ姫は返す。「あなた様をお待ちいたしかねて月が経つでしょう。」ヤマトタケルはそこにクサナギの剣を置く。

 

湖に沈む都市レムリアの記憶。人々は沈みながら皆歌を歌った。その歌に囲まれる二人の男女。女性は自分の命を犠牲にして男性を救う。このレムリアの記憶は、項羽の四面楚歌から始まっているのだ。

 

ヤマトタケルは歌う。「ヤマトは国のまほろば」その後、タケルは白鳥になって飛んで行く。

 

第十二章 ~イシククル湖の伝説とふたつの矛~

 

イシククル湖の伝説を簡単に述べる。

この地には湧き続ける不思議な井戸があった。水を汲んだあとは鍵をかけるか石を乗せる必要があった。ある日、一人の娘が水を汲んでいるところへ恋人が現れ、娘は鍵をかけるのを忘れた。町は一夜にして水の底に沈んだ。

 

これは5〜6世紀のことである。町を湖に沈めたのは烏孫の娘。彼女は水鳥になって故郷に還りたいと歌った劉細君の子孫。王族の娘。娘の前に現れた男はおそらく同盟か何かで訪れていた大月氏の王子。烏孫と共に赤谷城は湖に沈み、当時山だった部分が湖上の島となって残った。人々は歌いながら湖に沈んだ。男は娘が命に代えて守ったため、生き残った。この地を追い出されていた大月氏がその地に戻り、湖上の島に新たに弓月城を建設した。ワンピースでいう光月である。この島と城は竜の巣の中にあり、普段は見えない。629年に長安を出発した玄奘三蔵が熱海(ネッカイ)と呼ばれるこの湖で竜を見ているが、島や王宮を見ていないのはそのため。ラピュタと言えばイメージしやすいでしょう。なお湖を覆う天山山脈が蓬莱山である。湖に沈む二人はある約束を交わした。「鳥になって飛び、もう一つの月で会おう。」

この記憶がレムリアであり、もう一つの月として選ばれたうち一つが、月の国・日本である。

約束を果たす人物として選ばれたのは631年に人質として来日した扶余豊璋(フヨホウショウ)。中臣鎌足と名乗り大化の改新を引き起こし、藤原鎌足として藤原家を名乗る。彼が弓月の君を名乗ってもおかしくないし、クシャーナ朝大月氏がインドに絡むので渡来した秦氏が仏閣を建立していくのもおかしくない。

彼の名前は712年に編纂された古事記において天之日矛(アメノヒボコ)となるが、ヤマトタケルでもある。タケルが白鳥になって飛んで行った先は浦島太郎に描かれるように、もう一つの蓬莱山・紀州熊野である。フヨホウショウをアメノヒボコ。つまり矛と名付けた理由は、第二のイザナギ・イザナミとしたからである。彼らが国生みに使った天沼矛(アメノヌボコ)という矛になぞらえて。沼から始めた雲の国を日の国に書き換えた。ここにも表されているのです。

 

第十三章 ~かぐや姫の罪・うかんるり~

 

これはあまり有名ではない部分ですが、竹取物語においてかぐや姫はそもそも何故あの国に生まれたかというと、その答えは月の民が述べています。「この者は罪を犯したのでそれを償っているのだ。」と。罪。それは赤谷城を湖に沈めたこと。同じく竹取物語において車持皇子が蓬莱山の話をします。「海の上に漂っている山に辿り着くと、天人の服装の女が銀の椀に水を汲んでいる。『蓬莱の山である。私の名はうかんるり』」

これがおそらく都市を湖に沈めた烏孫の娘の名前であり、かぐや姫の前の名前・イチキシマ姫。水の女神である。るりとは瑠璃。当時の意味ではラピスラズリを指す。ワンピースでいうところのリリィの失態。ゾウの償いにあたる。何故アニメや漫画という手法でヒントを授けているかというと、固定概念で塗り固められた人々よりも、若い世代にダイレクトに伝えたいからです。そういう意味では古事記のアニメ版と言っても良いのですよ。今の時代は海外にも出やすいですしね。井戸で水を汲む女性のところに王子が現れる。これはディズニー版の白雪姫でも描かれます。白雪姫の原文には、あのシーンないんです。

 

第十四章 ~ラピスラズリと波動~

 

実は十二部族が運んだ二枚の石板。あれはラピスラズリで出来ています。磐座を信仰する月の民たちは岩から出る波動を感じることが出来、波動をエネルギーに変えることが出来た。月の波動もそう。そうやって神様と交信していた。

イシククル湖の伝説を思い出してみましょう。「水を汲んだあとは鍵をかけるか石を乗せる必要があった。」

この伝説が真実であるならば、町を一夜で沈めるほどの水圧が、鍵をかけるとか石を乗せる程度で抑えられるのは不自然なのです。それも今の私たちの能力から考えれば。ですが。

ピラミッドやオーパーツしかり、彼らは波動を動力源として石を動かしたり加工したりする事が出来ていた。私が何故そう考えたかというと、ラピスラズリの二枚の石板。あれは四つの勾玉に姿を変えていると思われるからです。ヒスイの産地であるこのタリム盆地の近くのこのイシククル湖の地で。勾玉。つまりペンダントのようなものが動力の鍵である。そう考えるとラピュタは余計に近いのです。空に浮かぶ城に水中都市が描かれるのも。四つのうち二つは今もイシククル湖に沈んでいると思われます。残り二つの勾玉は組み合わせると陰陽を表す太極図のようなものであると思っています。古事記で山幸彦の時に描かれる、鹽満ちる珠と鹽乾く珠。そして玉取姫の物語における、藤原不比等に贈られ、龍神に奪われた「面向不背(メンコウフハイ)の玉」。この物語はおそらくイシククル湖に沈みゆく勾玉を「うかんるり」が命に変えて拾い上げた時のお話かと思われます。古事記でオトタチバナ姫が入水して、ヤマトタケルの元に流れ着いた櫛も。もう一度出会うために。

なお、イシククル湖に沈んでいる勾玉はキルギスドンが持っているはず。守っていると言ってもいい。

 

第十五章 ~前漢・後漢。トキジクノカクノコノミと橘~

 

さて、始皇帝が死去したあと、秦を滅ぼした項羽と漢の劉邦が争って、劉邦が漢を建国するところに戻ります。

紀元前206年に建国された漢はいったん新王朝に敗れる時代があるので、15年間の新を挟んで前漢と後漢に分かれます。

その後に劉備が建国した蜀漢を含めて劉の一族が続きますが、送られた諡号は孝文皇帝・孝景皇帝・孝武皇帝・孝明皇帝のように孝が付く。ところで日本の天皇も初代神武天皇のあと二代三代四代とあって、謎の空位があり、五代六代七代八代と続くのだが、五代目からの諡号が孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇となる。

時は後漢の時代・光武帝の時。西暦57年のこと。「漢委奴国王」の金印を日本に授与し、皇帝が急逝する。古事記によれば垂仁天皇の時代であり、タヂマモリが常世の国からトキジクノカクノコノミを持って来たとあり、それはタチバナのことです。とある。日本の歴史ではタチバナは西暦71年となる。それは垂仁天皇が西暦70年に崩御した翌年であり、前述したように第二イスラエル神殿崩壊の翌年。日本に「タチバナ」が届く。

 

第十六章 ~金印と卑弥呼~

 

金印の話はもう一つある。前漢の時代。紀元前139年武帝の時に大月氏と同盟を組もうとしたのは前述した。その大月氏に対して魏の明帝は229年に「親魏大月氏國王」の金印を授与しており、卑弥呼に対して「親魏倭王」の金印を授与したのはその9年後、238年となっている。そして明帝は239年に急逝。こちらも金印のあと急逝なのだ。逆に言えば、皇帝たちの急逝の年に合わせて書き換えたとも言える。誰かの意思で。古事記によれば神功皇后の時代。そして親魏倭王の金印らしきものは日本には現存しない。

ところで三国志の魏書・倭人条に掲載されている卑弥呼という女王と邪馬台国。朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国へは一万二千里と書かれており、単純計算すると日本列島を遥かに越えた太平洋に位置するため、いろんな説が飛び交っており未だに場所の特定が出来ていません。

この卑弥呼の一人が、実は大月氏の女王なのです。帯方郡から邪馬台国へは一万二千里ですが洛陽からだと一万七千里であり、同じく洛陽からクシャーナ朝大月氏までも一万七千里です。邪馬台国に金印を授与したという238年にはまだ、十支族の出雲国邪馬台国であったと思われます。この海路を選んだ月の民と、陸路を選んだ12部族の月の民トミュリス女王・秦の時代の小月氏の女王楊端和(ヨウタンワ)・武帝時代の大月氏の女王。呉への牽制のためにこれらを重ねただけ。卑弥呼として。それはきっと神のなせる業。なぜならばこの二つの月の民はまだ出会っていない。

帯方郡から邪馬台国へは一万二千里と書いたのは逆を言えば、日本ではないと書いている。だが偶然にも日本人の祖先なのだ。

 

第十七章 ~辯才天と弁財天~

 

日本へ仏教が伝わったのは538年。初期の弁財天は腕が八本ありました。八つの臂(ヒジ)なので八臂辯才天(ハッピベンザイテン)と呼ばれます。まだ財宝の文字も付いておりませんでした。日本最古の辯才天と呼ばれるのは西暦658年箕輪山のものや、大神の龗神神社などです。

これが琵琶を持った二本腕の美しい女神となり、財運が付いていきます。二臂像の最古のものは京都市白雲神社。鎌倉時代1224年の頃。

さらに宇賀神と習合し、頭上に翁面蛇体の宇賀神を乗せた弁財天も現れます。この宇賀は天竺のシヴァ神です。七福神の始まりは室町時代末頃。

ところで日本三大弁財天と呼ばれる宮島・江島・竹生島がいずれも島なのはみなさん気付いていらっしゃるでしょうか?あれはイシククル湖に残った湖上の島の記憶なのです。レムリアの記憶。洞爺湖の中島もそう。蕪島も金華山も。淡島も竹島も青島もそう。いろんな神社仏閣で池の中に弁財天を祀るのもその為。

 

第十八章 ~楊貴妃とイチキシマ姫。牡丹と芍薬~

 

玄宗皇帝の寵姫である楊貴妃。中国四大美人の一人であり世界三大美人の一人。

生まれながらに玉環を持っていたという説があり、名前は楊玉環(ギョクカン)。道号は太真。

安史の乱が起こり、洛陽が陥落する。翌年玄宗たちは首都長安を抜け出すが、うち一部のものが楊貴妃を「賊の本」として殺害することを要求。「最後に仏を拝ませてほしい。」と言い残して楊貴妃は首を吊った。その後、南方から彼女の好きだったライチが届く。玄宗はこれを見て改めて嘆いた。

玄宗皇帝が寵愛し過ぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられ、傾国の美女と呼ばれている。琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られている。彼女の死後には、こんな物語がある。

【長恨歌伝】

「玄宗は道士に楊貴妃の魂を探させた。道士は魂となり、海上の山に太真という仙女がいることをつきとめ会いに行く。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱と、二つに分けたカンザシのうち一つを託し、伝言を伝える。玄宗と楊貴妃が七月七日、比翼の鳥・連理の枝になることを誓ったと。」

ここで竹取物語の車持の皇子の話を思い出してみましょう。「海の上に漂っている山に辿り着くと天人の服装をした女が山中から出てきた。『この山の名はなんと申しますか?』と尋ねました。女が答えて言うには、『これは蓬莱の山です。』女は、『私の名はうかんるり』と言って、すうっと山の中に入ってしまいました。」

でしたね。竹取物語の最後はこうです。

「天人の中に持たせている箱がある。天の羽衣が入っている。また一つある箱には、不死の薬が入っている。かぐや姫は壺の薬をちょっと舐めたあと、献上し、帝への文を渡す。」

となります。不死の薬とは、ラピスラズリで出来た勾玉のこと。二つセットで一つである。陰陽。

前述したように「うかんるり」はイチキシマ姫です。月に還る前の名前。

七月七日が出て来たのでこちらの物語も見てみましょう。

【七夕物語】

「働き者だった牽牛と織女は結ばれたあと、愛し合ってばかりで怠け者になってしまい、牛たちは瘦せていった。二人の間には天の川が現れ、一年に一度、七月七日の夜にだけ会うことが許される。」

 

また楊貴妃は牡丹の花神として祀られる。牡丹は当時、木芍薬と呼ばれていました。生まれながらに玉環を持っていたことと牡丹から、こちらも見てみましょう。

【里見八犬伝】

「八犬士が生まれる元となった犬の八房には八つの牡丹の痣があり、八犬士にもそれぞれ牡丹の痣がある。

伏姫の持っていた数珠が八つの珠として各地に飛んだ。この数珠は3歳の頃に洲崎明神【天比理乃咩命】で役行者から与えられたとされる。」です。

八臂だった辯才天がなぜ琵琶を持つ二臂の弁財天へ変わって行ったかと言うと、756年に死んだ楊貴妃を合祀したからである。なお、蓬莱山は紀州熊野であり、キルギスの天山山脈でもある。どこでもドアの入り口と出口みたいなものです。楊貴妃の伝説が紀州熊野にあるのはその為。

 

第十九章 ~不死の薬と勾玉~

 

勾玉がなぜ不死の薬なのか。あれはもとは石板でした。そもそもこの石板にはモーセによって十の戒律が書かれておりました。いわゆる十戒です。神から与えられたモーセの律法は613の命令から成り立っていてその最初にでてくるものがこの十戒であり要約なのです。神に愛されるため、つまり民が滅びないためのものでしたし、これらを守ることが全体として長生きの秘訣だったとも言えるでしょう。法律であると言えばその意味合いは伝わると思います。個人の不死と考えない方が理解はしやすいと思います。民としての不死。逆に言えば個人に与えられる不死は辛いものでしかありません。限りあるからこそ儚く、儚いからこそ美しく咲く。不死(富士)を欲しがるのは自分こそが優れていると思いあがった傲慢なものだけでしょう。

古事記には新羅の王子アメノヒボコが持って来たと書かれます。八種の宝として。なお、残りの二種は百済からと書かれます。が、実はアメノヒボコは百済の王子です。つまり百済から人質として来日したフヨホウショウが持ってきているのです。合わせて十種(トクサ)の宝を。これが十種の神宝とか十種の瑞宝と呼ばれるものであり、十戒。ラピスラズリで出来た陰陽の勾玉です。フヨホウショウが百済の王子として来日している間に百済は新羅に滅ぼされます。だから言い換えてるのです。わざと。日本で最初の法律・律令制度はこれらを元に再構築したものであるため、神事に関わる物が多い。そしてこの中央軍事組織が五衛府。五老星である。なお十種の神宝は現存しません。しかしこれが決め手になりました。百済も月の民であるという証になったのです。だから百済を復興するために当時の天皇家が動いて朝鮮半島に出兵し、白村江の戦いが生まれたのですが、それは後述しましょう。なお、古事記では新羅の王子アメノヒボコは赤玉から変化したアカル姫を追ってやって来ます。この新羅生まれの姫が日本に還るのは、彼女が月に還るかぐや姫だからです。前述したようにかぐや姫は日本に還ったあと、記憶がありません。日本に来たアメノヒボコは前津見(マエツミ)という女性と結婚します。これがおそらくアカル姫と瓜二つだったはずです。やがてこの子孫に神功皇后が生まれ、白村江の戦いに挑みます。いわゆる三韓征伐です。

 

第二十章 ~時軸の迦具夜の木の実~

 

さて百済から八種の宝を持って来たアメノヒボコの子孫について。垂仁天皇の時代に、矛の形八本と蔓の形八本とされるタチバナ・別名トキジクノカクノコノミを常世の国から持って来たタヂマモリが描かれます。タヂマモリとアメノヒボコの世代、天皇の世代を照合すればアメノヒボコは七代目天皇・孝霊天皇の時代に渡来したことになります。金印が授けられたのは垂仁天皇の時代57年で光武帝が急逝した時でしたね。継いだのは明帝です。諡号は孝明皇帝。光武帝の妻・陰麗華(インレイカ)と明帝の妻・馬皇后は共に中国史上でも優れた皇后の一人として称えられています。明帝の時代に仏教が日本へ伝来した説もあります。

日本の七代目天皇・孝霊天皇(BC290〜BC215)はハヘイロネ・ハヘイロド姉妹と結婚しました。天津国の物語ではハロデの泉です。この泉で民を二つに分けると描かれております。古事記においてアメノヒボコは赤玉から変化したアカル姫を追って来たと述べました。常世の国のアグ沼において、ある女性が昼寝をしていたところ、虹のように光が差すことによって受胎したことでアカル姫は生まれます。ほぼキリストとして。天津国ではマリアが光によって受胎し、キリストが生まれるのですが、これは皇帝アウグストの時代です。紀元前4年のこと。

タヂマモリがトキジクノカクノコノミを持って来た時には、垂仁天皇と太后は死んでいたと描かれます。太后とはヒバス姫なのですが途中から漢字が変更されます。実は垂仁天皇の別の妻・迦具夜姫なのです。なのでトキジクノカクノコノミ・タチバナの正体は金印でもあるが、かぐや姫が求めた蓬莱の玉の枝でもある。アメノヒボコがフヨホウショウであり中臣鎌足を名乗ったとお伝えしました。中臣氏。これが天岩屋の前で蓬莱の玉の枝を造ったアメノコヤネの子孫なのです。トキジクノカクノコノミ。時軸の迦具夜の木の実という漢字がふさわしいかと思われます。

ちなみにですが、明帝の妻・馬皇后の子孫に馬超がいます。馬超は古事記では神武東征の中で尾のある人として描かれます。尾のある人は基本的には玉璽に絡んだ人です。井戸から玉璽を発見した程普のように。馬超は尾のある人ですが殺される80人として描かれます。馬超は歴城を襲撃して住民を殲滅し、姜叙(キョウジョ)の母を手にかけました。

 

第二十一章 ~劉備玄徳と酔芙蓉~

 

陸路を選んだ12部族の辿った流れに戻ります。垂仁天皇の時代の西暦57年に後漢の光武帝が「漢委奴国王」の金印を日本に授与して急逝したあと、時は流れて後漢の最後の皇帝献帝の時に黄巾の乱が起こります。三国志の始まりです。古事記に垂仁天皇として描かれる劉備玄徳にはビ夫人という妻がおりました。吉川英治三国志で芙蓉フヨウ姫とされ、日本だけがフヨウ姫と呼んでいます。ちなみに酔芙蓉という花は、朝に白く咲き午後になると徐々に赤くなり、夕方には濃い赤色になって萎んでしまう一日花。長坂の戦いで劉備は妻子を捨てて逃げました。フヨウ姫は井戸に身を投げます。趙雲が劉備の子・劉禅を連れて曹操軍の中を駆け抜け、張飛のいる橋まで届ける話は有名ですね。古事記では垂仁天皇の妻マトノ姫が深い淵に身を投げます。ウナガミ王がホムチワケを連れて旅をし、肥(ヒ)の河に辿り着きます。ウナガミ王とアケタツ王たちは肥の河の中に黒巣橋(クロス・十字)を作りました。スサノオ(張飛)は肥の河でヤマタノオロチを斬り散らしたので、肥の河が血になって流れました。ホムチワケを守った張飛が持っていた武器は蛇矛。のちに、車騎将軍に任命されます。

 

第二十二章 ~車騎将軍と車持の皇子~

 

竹取物語では車持の皇子がこう語る。「うかんるり(フヨウ姫)はそう言って山の中に入った。~略~。金・銀・瑠璃色の水が山から流れ出している。そこには色とりどりの宝石で出来た橋が渡してある。その辺りに照り輝く木が立っている。その花を折って参ったのです。」

そこへ蓬莱の玉の枝を造った鍛治職人六人が請求書を持って来る。自分の噓がバレた車持の皇子はかぐや姫が鍛治職人に与えた褒美を奪い、血の流れるまで職人たちを打ち据える。皇子はあまりの恥ずかしさに山の中へ入っていった。このことを「たまさかる」と言い始めたのである。

つまりヤマタノオロチは鍛治職人であるとも言えるのだ。古事記に戻ります。垂仁天皇は玉を作った人たちを憎み領地を奪いました。それでことわざに、「地(トコロ)を得ない玉作りだ」というのです。

 

第二十三章 ~宝石で出来た橋とカササギ~

 

車持の皇子が述べた、宝石で出来た橋とは夜空で言うとアルビレオを持つ白鳥座のことです。では夜空の川とは?そうです。天の川です。実はこの天の川。夜空のヤマタノオロチなのです。その場合サソリ座の赤い一等星アンタレスがオロチの眼となります。天の川の中に北十字の白鳥座があり、それを挟むように織姫のベガと彦星のアルタイルが輝きます。白鳥座のデネブと合わせて夏の大三角形であり、すべて一等星です。

なぜ白鳥座が橋なのか?それは常世の国の物語に描かれています。七夕物語として。

牽牛と織女の間に天の川が出来、一年に一度だけ二人を渡らせるのがカササギ(カチガラス)です。彼らが群れを成して橋となるのです。これが白鳥座のこと。

牽牛と織女とはスサノオとクシナダ姫でもあり、八坂神社でスサノオが牛頭天王と呼ばれていたのは牽牛が関与します。今はないですが祇園祭には鵲(カササギ)鉾もありました。

スサノオは肥の河でヤマタノオロチを倒し、クシナダ姫は櫛になりました。

ヤマトタケルは渡れない海を渡った。この犠牲になったのが弟橘オトタチバナ姫であり、彼女の櫛だけが流れ着く。ヤマトタケルは白鳥になって飛んでいく。

古事記で高(タカ)姫が兄を歌った歌があります。

訳すと

天の若い弟棚機(オトタナバタ)姫の

首に掛ける珠の首飾り

そのミスマルの珠のような方

美しい谷を 二人渡らす

阿遲志貴高日子根(アヂシキタカヒコネ)神

この歌は七夕のことを示しており、アヂシキタカヒコネとはカチガラスとなります。

織女であるオトタナバタ姫が首に珠を掛けている点から述べて行きましょう。

イザナギから首に御倉板擧(ミクラタナ)の神と言う名の玉を掛けてもらった天照大御神は天安河(アメノヤスノカワ)を挟んでスサノオと誓約(ウケイ)を行います。

 

第二十四章 ~アメノヤスノカワとアマノガワの白龍~

 

アメノヤスノカワを挟んでウケイの時に天照大御神(琴座)の五つの御統(ミスマル)の珠から五柱の神が生まれるのは、琴座が星五つだからです。

同じくウケイの時に、スサノオ(わし座)の折れた剣三つから三柱の宗像三女神が生まれます。これは夏の大三角形であるアルタイル・デネブ・ベガです。

多紀理(タギリ)姫(わし座)

市杵島姫(白鳥座)

多岐都(タギツ)姫(琴座)

ヤマタノオロチだけでなく白鳥座も天の川なので、市杵島姫が水の神なのです。そして龍神と呼ばれるのです。つまり古事記における白鳥とは橋であり白龍を指す。

ホムチワケが河の中に十字橋を作ったのには、ちゃんと意味がある。

そして蓬莱山。これが天照大御神の琴座です。この琴座を亀と見れば、蓬莱山(亀)と鶴(白鳥)の絵も納得出来ると思います。

星座ついでに。アメノヤスノカワラに鼻の破れたイルカ座が流れ着くかも知れませんし、ヘラクレス座が天の岩戸を投げるかも知れませんね。

反乱したアメワカヒコとアヂシキタカヒコネがそっくりと言うのは、白鳥座とわし座のことです。アメワカヒコの弓はキジを射貫きます。良く見ると白鳥座とわし座の間に矢座が存在するのです。

それと。古事記の橋は旧約聖書の方舟です。オリーブを咥えてやってきたのは、鳩。

 

第二十五章 ~孫尚香とサホ姫~

 

劉備玄徳の妻・孫尚香(ソンショウコウ)。孫権の妹。

14世紀末頃に書かれたという三国志演義では、周瑜発案の婚姻政策により当初は劉備を殺そうとしていたが失敗。

劉備が数万人の兵を率いて益州に侵攻した際、孫権は妹を迎えて揚州に帰郷した。孫尚香が形式上の息男である劉禅を連れて帰ろうとしたため、趙雲に命じて劉禅を奪還した。この劉禅の幼名・阿斗が阿保の語源となる。劉備は成都へ入城後、呉氏を夫人として迎える。なお、孫権と共に揚州へ帰郷したあとは不明となっている。

中国歴朝で最も名高い美人百人に選ばれている。

 

垂仁天皇の妻・沙本姫(サホヒメ)。沙本彦(サホヒコ)の妹。兄の命令で寝ている垂仁天皇を小刀で刺そうとする。

垂仁天皇はサホ彦討伐のため、兵を率いて稻城へ向かう。サホ姫はサホ彦の城へ戻ってしまった。そして城の中で垂仁天皇の子を出産する。三年後なのに。垂仁天皇は力士を使って子供とサホ姫を取り戻そうとする。サホ姫は奪えなかったが、子供は奪った。だがその子供、本牟智和氣ホムチワケは生まれてしばらく喋れなかった。垂仁天皇はその後、サホ姫の遺言により別の姉妹と結婚する。愛し合ったサホ姫は燃える城の中に消えて行った。愛する男を殺すことが出来ず子供を託して炎に消えたサホ姫は雪女として語られていく。

 

孫尚香はNHKの人形劇三国志で、劉備の前妻である淑玲スウリン(フヨウ姫)と瓜二つとされた。死んだ女性にそっくりな人と運命的な出会いをする。これは度々描かれていきます。

日本の戦国時代に照合するならば、織田信長(孫権)の妹であるお市(孫尚香)が浅井長政(劉備)に嫁ぐ部分。これが互いに転生し、お市と瓜二つと言われた茶々と真田幸村が出会う。幸村が実際に使用した刀は分かっていない。にも関わらず十文字槍なのだ。幸村と茶々は共に炎の城に消える。タシギとくいな。ジニーとボニー。炎の城に消える光月トキと光月日和。浜路姫と甲斐の浜路姫。炎の城に消える桜姫と最後の炎になった佐古下柳も。かぐや姫と迦具夜姫もそう。みんな瓜二つ。

 

第二十六章 ~お市と市杵島姫~

 

浅井長政の母は井口氏の娘であり、井の口殿と呼ばれる。井口氏は、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。浅井長政の父と井の口殿の結婚は、高時川の用水をめぐり各岸を代表する浅井氏(左岸の代表者)と井口氏(右岸の代表者)の融和を目的とした婚姻でもある。この井頼りの娘が、井戸で水を汲んでいたうかんるり・市杵島姫と重なっていく。この井頼りの一族に嫁いで来たのが、織田信長の妹・お市である。

市杵島姫を祀る竹生島を信仰し守ったのが寧々。それと茶々や初、江の浅井三姉妹。お市の娘たちは豊臣家・徳川家・天皇家にそれぞれ嫁ぐ。彼女らとその子孫たちがイシククル湖の女性の魂や、市杵島姫の魂を色濃く受け継いで天皇家や徳川家にまで入って行く。

また水の女神イチキシマ姫とは、空海が京都の神泉苑で雨乞いをした時に無熱池(イシククル湖・熱海ネッカイ)から勧請した善女龍王でもある。八大龍王・娑伽羅(シャカラ)龍王の第三王女で、頭上にいた金色の蛇とされる。天竺の物語では巨大な蛇ヴリトラを倒したインドラの、妻シャチーである。水の精アプサラスであり、アスラ族の娘で金色の身体を持つ。オロチを倒したスサノオの妻・頭上の櫛になったクシナダ姫。それは八坂神社で祀られていた牛頭天王の妻・頗梨采女(ハリサイニョ)でもあります。醍醐寺の清瀧権現でもある。入水し櫛になったオトタチバナ姫でもありますし、前述のサホ姫雪女でもあります。アカル姫かぐや姫や豊玉姫乙姫なども。イチキシマ姫とはこのように相当な範囲を包括します。これは天竺でパールヴァティーに八つの別名があるように、八臂辯才天が八本の腕を持つように、多彩な側面があるということなのです。

 

第二十七章 ~桃園の誓い~

 

ところで古事記ではイザナギが三つの桃を投げます。その後の禊で

天照大御神・スサノオ・月読命の三兄弟が生まれます。スサノオは長いヒゲが胸に垂れさがる・天の安の河を挟んで天照大御神と誓約をする。と描かれます。

桃園で義兄弟の契りを交わしたのが

劉備・見事なアゴヒゲの関羽・張飛ですね。

ルフィ・エース・サボも義兄弟の契りを交わします。

桃から生まれた桃太郎は三つのきびだんごを与える

犬・猿・雉に。

やがて蜀漢を興した劉備・関羽・力持ちの張飛の義兄弟は古事記ではこうも描かれます。出雲を造ったオオクニヌシとコトシロヌシ。そして力持ちのタケミナカタ。蜀漢を興して直ぐに関羽・張飛と立て続けに義兄弟を失う劉備。コトシロヌシ・タケミナカタと次々に屈服させられてゆくオオクニヌシ。共に志半ばにて倒れるのです。

 

第二十八章 ~関羽千里行~

 

関羽雲長。関帝。美髯公ビゼンコウ。

曹操の攻撃を受けて劉備が敗れ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に捕らえられた。客としてとどまる間、白馬の戦いで顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。曹操の領地を離れるにあたり、曹操へ挨拶に行くも居留守。

関羽千里行。関羽はそのまま赤兎馬に乗り五つの関所を破って曹操の元を去る。五関突破である。最終的に黄河で夏候惇と一騎討ちする。

 

スサノオ(関羽)は長いひげが胸に垂れ下がる。

暇乞いとして高天原に参ったスサノオは、高天原へ滞在中に機織場の屋根に穴をあけ、馬の皮を剥いて機織女を殺す。

天照大御神(曹操)は岩屋戸に隠れる。

五穀を産み出すオオゲツ姫を殺す。

肥の河でヤマタノオロチと戦う。

老人を宮の長とする。

 

※曹操がなぜ天照大御神の位置かというと、この時献帝を庇護していたからである。関羽は曹操に降ったのではなく、献帝に降っている。

 

五関の一

関羽は一撃で斬る

ヤマトタケルは兄のオオウスノミコトを厠で殺す。

 

五関の二・三

関羽は西の洛陽へ向かう。

負けたふりをした孟坦を追いかけ、二人とも殺す。

ヤマトタケルは西方へ向かいクマソタケルを殺し、弟のタケルも追いかけて殺す。

 

五関の四

関羽は東へ向かう。

兵を途中の鎮国寺に伏せておいて関羽を倒すという作戦だったが、寺の僧侶がこのことを関羽に教えてしまう。

ヤマトタケルは出雲タケルと刀を交換して殺す。その後伊勢神宮の天照大御神を参り、東方へ向かう。

 

五関の五

関羽の宿舎に火を放つ。王植の配下が関羽の人柄に惚れ込み王植を裏切って助かる。

ヤマトタケルは騙されて火に囲まれる。ヤマト姫から授かった火打石で助かる。

 

五関の六

黄河の渡し口で通行手形をめぐって揉める。

ヤマトタケルは足柄の坂下で白い鹿を殺す。

老人を国のミヤッコにする。

 

14世紀の三国志演義に描かれる関羽千里行の辿った道は遠回りであり、不自然とされているが、実はこれで良いのです。封神演義でいうところの、黄飛虎も同じような突破をします。

 

五関の七・赤壁

赤壁の戦いで敗れた曹操を見逃す

ヤマトタケルは白い猪を見逃した結果、大氷雨に見舞われる。

 

第二十九章 ~諸葛亮孔明とイスケヨリ姫~

 

劉備玄徳によって、水魚の交わりと称され、三顧の礼で迎えられた諸葛亮孔明。伏龍、臥龍。

軍師である孔明は基本的に建内宿禰(タケシウチノスクネ)であるが、神武天皇の妻・イスケヨリ姫でもある。

 

東征を終えた神武天皇(劉備)にはニギハヤヒ(関羽)と大久米オオクメ(張飛)が仕えています。

イスケヨリ姫がオオクメに、「千人勝りの勇士だというのに、どうして目に刺青をしているのですか?」と問いかける。そのイスケヨリ姫の家はサヰ河のほとりと記されます。山百合草がたくさんあったとも。この川の名がサヰなのは、山百合の昔の名前がサヰだからと記されます。

 

なお、ニギハヤヒの正体は三本足の八咫烏。

三本足の正体は八咫鏡・ヤマタノオロチ(赤兎馬)・スサノオ(関羽)。ニギハヤヒの子供が馬シマジ。ニギハヤヒにはいろんな側面があるので後述します。

 

神武天皇は七人の女性の中から一人の女性を選びます。これがイスケヨリ姫です。

ここで、実は皆さんもご存知の常世の国の昔話、クジャクの舞を紹介します。

 

第三十章 ~三顧の礼と孔雀の羽衣~

 

昔々、ジプソンパンナという所に若い狩人がおりました。ある日狩人は静かな湖に辿り着きます。

 

一、綺麗なクジャクが七羽、岸辺におりてきました。クジャクたちは着ていた羽衣を脱ぎ捨てると、美しい娘となり、楽しそうに泳いでいます。水浴びがすむと、羽衣を着て舞いました。狩人は声をかけれませんでした。

 

二、狩人は一番下の娘を好きになり、翌日同じ場所に来て、羽衣を隠してしまいます。狩人は娘と結婚しました。しかしやがて娘は人間たちに魔女扱いされ、羽衣を着てクジャク山(月)へ帰って行きます。

 

三、狩人はクジャク山へ行って、また結ばれます。

 

これが劉備と孔明との三顧の礼(劉備が孔明の元を三度訪れたお話)です。

孔明が鶴のような衣を着ている理由でもあります。

羽衣と言えば竹取物語ですね。

 

一、帝は、中臣房子ナカトミノフサコ(中臣氏の始祖はアメノコヤネ。岩屋戸の前にも居ます。)に申し付けて、かぐや姫の家を訪ねさせ、拝見して来いと述べる。

かぐや姫に会うことを断られる

 

二、翁に申し付けて、かぐや姫を参内させよと述べる。

死ぬつもりだと言って、かぐや姫に断られる

 

三、狩に出かけると称してかぐや姫の家に行く

連れて帰ることは出来なかったが、両想いになる。

 

かぐや姫は最終的に羽衣を着て記憶を失くし、月に還る。イスケヨリ姫の家は山百合草がたくさんあったと述べました。山百合のもとの名前・サヰとは羽衣のことなんです。山百合の画像を見てみましょう。あと、三国時代の孔明は男性です。念のため。

 

※當藝志美美命(タギシミミ)が神武天皇の息子3人を殺そうと企む。イスケヨリ姫が3人に、「風が吹き出す」と伝える。3人兄弟のうち2番目のカムヤイミミがタギシミミを殺せない。

※赤壁にて曹操が劉備軍を攻める。孔明が「東南の風」を吹かせる。3人の義兄弟のうち2番目の関羽が曹操を見逃す。

 

※孔明は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用して作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。

※かぐや姫が帝に託した不老不死の薬は、富士の山の頂上で燃やされた。その煙は未だに、雲の中に立ち昇っている。

 

第三十一章 ~三韓征伐と南蛮征伐~

 

軍師である諸葛亮孔明は基本的に建内宿禰(タケシウチノスクネ)であるが、仲哀天皇の妻・息長帶(オキナガタラシ)姫。つまり神功皇后でもある。

 

仲哀天皇(劉備)が琴を弾き、タケシウチノスクネ(孔明)が神の仰せを伺うと、神功皇后(孔明)に神がかりする。

「西の方に国がある。その国を授けよう。」

仲哀天皇はこれを信じなかったので、崩御する(200年)。

神功皇后が新羅と百済を征伐する。三韓征伐と呼ばれるが古事記では二韓だけであり、百済に至ってはすぐに降伏している。

 

関羽の弔い合戦である夷陵の戦いにおいて呉に大敗した劉備は病が重くなり、白帝城にて崩御する(223年)。二年後に孔明は南蛮を平定。当初は高定・雍闓・孟獲の三名が対象だったが、孔明が南進する時すでに雍闓は高定の部下に殺害されていた。そのため高定を斬殺し、孟獲と対峙する。孔明は7度孟獲を捕獲し、7度孟獲を釈放。その後彼は心から降伏する。

 

第三十二章 ~黄月英と初瀬姫~

 

黄月英(コウゲツエイ)。

ゲツエイの父・黄承彦コウショウゲンは一人娘ゲツエイを諸葛亮に嫁がせたいと思い、共通の友人である崔州平に仲人を頼んだ。ゲツエイは「赤毛で色黒のあばた面」と噂され、諸葛亮はこの縁談を引き延ばしていた(一方では「金髪で小麦色の肌」とも)。そこでコウショウゲンは崔州平に「我が家に名画があるので、諸葛亮を誘って来てほしい」と頼んだ。

諸葛亮は黄家にやってきた。入ろうとすると、中から大きな犬が飛び出してきた。驚く間もなく、今度は後ろの扉から虎が飛び出した。諸葛亮が逃げ出そうとすると、崔州平が引きとめた。

よく見ると、どちらも木でつくられたものだった。諸葛亮が「先生のからくりのお手並み、感服いたしました」というと、コウショウゲンは「娘のいたずらですよ」と答えた。

諸葛亮はゲツエイが並の娘ではないと思い、結婚を願い出た。

婚礼の夜、諸葛亮が花嫁のかぶりものを取ると、そこには花のように美しい顔が現れたと言われている。

ゲツエイは外見だけでなく、自分の才能を認めてくれる人が良いと思い、醜女という噂を流していたのだという。

 

初瀬姫。鉢かぶり姫。

長谷観音のお告げに従い、幼い娘の頭に大きな鉢をかぶせたところ、鉢がどうしてもとれなくなってしまった。嫁くらべが翌日に迫った夜、鉢かぶり姫の頭の鉢がはずれ、姫の美しい顔があらわになった。しかも歌を詠むのも優れ、学識も豊かで非の打ち所が無い。嫁くらべのあと、鉢かぶり姫は宰相と結婚して3人の子どもに恵まれ、長谷観音に感謝しながら幸せな生活を送った。初瀬川の名を取って初瀬姫と言う。桜井市出雲地区です。

鉢で顔を隠された初瀬姫は、隠された水の神・瀬織津姫を表します。観音部で言えば十一面観音菩薩がそうなんです。

 

第三十三章 ~カツト姫と真珠の夕陽~

 

関羽は虎牢関で呂布と闘い勝利したとき、呂布が紫金冠につけていた真珠をお守りとして大切に所持していたが、これを娘の関銀屏(カンギンヘイ)に贈った。関銀屏は美しく色白で賢明な淑女に育ち、多芸に通じた。孫権が長男の嫁に欲しいと願い出た時、「虎の娘を犬の仔にはやらん」と返したことが孫権の怒りを買って関羽は滅ぼされたとされる。関羽が殺された後にはこんな噂が立った「荊州城は落ちても、呂布の真珠のおかげで関銀屏は命拾いをした。」

関銀屏は南蛮征伐後も地元の住民に養蚕・農耕から読み書き算盤、果てには趙雲直伝の武術に至るまで色々助け教えたため、人々は彼女を慕い金蓮山に関羽の形見の真珠と一緒に葬ったそう。それ故、今でも晴れた日には山の頂きが五色に煌めくという。これが竹取物語で富士山の頂上で燃やされた不死の薬と重なります。

 

関羽の娘は実在するが1986年の『三国外伝』にて初めて名前が登場したため、関銀屏は創作の人物とされており、民間伝承もその後に創られたとすら言われる。が、古事記のこの話を紹介します。

 

神功皇后は三韓征伐の途中で産気づいていた。出産を鎮めるために衣で石を巻いて腰に当てた。九州に渡ってから出産したので、その地を宇美(ウミ)と言い、当てていた石は伊斗(イト)の村にあると言う。

九州の玉嶋里の小河の磯を勝門(カツト)姫と言う。

 

勝門姫は福岡・長崎に多く祀られ、福岡県福津市の宮地嶽神社にも祀られている。CMで有名になった神社だ。光の道。あの美しい夕陽は真珠に例えられた。古事記編纂当時、実は長崎(肥前国)の大村湾は天然真珠の一大産地だった。当時真珠はマダマ・シラタマなどと呼ばれている。カツト姫とは真珠の女神・関銀屏。

 

第三十四章 ~孔明とヤマト姫が授けた袋~

 

魏延が攻め込んでくると、楊儀は諸葛亮から死の直前に託された錦の嚢フクロを開き、そこに書かれた指示に従い、魏延に向かって「『わしを殺せる者があるか』と三度叫ぶ事ができたら漢中をお譲り致そう」と告げる。魏延が一声そう叫ぶと、その言葉が終わらないうちに、諸葛亮の密命を受けていた馬岱が「俺が殺してやる」と叫んで、魏延は彼によって背後から斬殺されてしまう。

 

「何かあったら開けなさい」と言って

ヤマト姫はヤマトタケルに御嚢(フクロ)とクサナギの剣を授ける。火に囲まれたタケルはそのフクロを開ける。入っていた火打ち石で迎え火を出して炎を退け、クサナギの剣で草をなぎ、騙した者どもを斬り殺した。

 

第三十五章 ~関羽の矢傷~

 

龐徳ホウトク。馬騰・馬超父子の配下だったが曹操に仕え、忠烈な最期を称えられた。

 

樊城での関羽征討戦では、龐徳は己に向けられた疑念を晴らすべく、戦に赴く前に自らの棺を用意し、命に代えてでも関羽を討つという意思を示している。

将軍が于禁(オトウカシ)、副将が龐徳(エウカシ)となるものの、両者の折り合いは険悪で、意思の疎通を欠いてしまう。初め龐徳が関羽(八咫烏)の左腕に矢を命中させるなど、戦局を優位に進めていたが、于禁は面目を失うことを恐れて撤退命令を出す。その後も龐徳に対する于禁の妨害は止まず、歩調の揃わない状態が続いた結果、関羽(ミチノオミ)の計略による水攻めを喰らって大敗し、于禁は降伏する。孤立無援の龐徳は周倉(オオクメ)により捕らえられた。龐徳は曹操への忠義を貫き通すことで関羽に処刑される。おそらく用意した棺に入れられたのだろう。

 

神武東征の中

兄宇迦斯エウカシ(龐徳)が八咫烏(関羽)を射返します。エウカシは大殿を作り仕掛けを作って待ちました。

そのことを弟宇迦斯オトウカシ(于禁)が伝えてしまいます。道臣ミチノオミ命(関羽)と大久米オオクメ命(周倉)はエウカシをののしりました。「貴様が作った大殿の仕掛けに先に入れ。」エウカシは自分の作った大殿の仕掛けに入りました。

 

関羽が龐徳から受けた矢傷は骨に毒が回っているため、傷口を切開して骨を削る必要があった。関羽は諸将を招いて宴会を催す中で、名医の華佗カダに手術を要請。関羽は肉を焼いて酒を飲みながら麻酔なしでこの手術を受けきった。

 

オトウカシ(于禁)が献上したご馳走を軍に賜りました。そして歌います。「シギの網を張ったら思いもよらない鷹がかかった。前妻(曹操)が食べ物を乞いたら少しばかりを与えよ。後妻(劉備)が食べ物を乞いたら沢山与えよ。」

※関羽は一度、曹操の元に滞在していました。その恩返しとして、赤壁の戦いにおいて曹操を見逃してしまいます。これは孔明が関羽を死罪に問うほどの出来事だったのです。なお、樊城を包囲するも息子と共に死んだ長いヒゲの関羽は、白ヒゲとして描かれました。曹操が援軍として七軍をよこしたことも、関羽が水攻めで対抗したことも、関羽軍の中に噂を広められ、裏切り者が出たことも、関羽が傷を負ったことも、孫権が背後から忍び寄って来たことも。全部描かれました。

 

第三十六章 ~ウサギと亀~

 

周瑜。京劇では「美周郎」信仰では「大雷神」

 

赤壁の戦い

曹操軍が攻めてくると、周瑜と、尾のある人程普は3万の兵を引き連れ、劉備と合流しに向かう。劉備は孫権の領地に駐屯し、孫権軍を待っていた。周瑜の船隊が見えた劉備はすぐさま一艘の小舟に乗って、周瑜に「兵卒はいかほどおありか?」と訊ねた。周瑜が「3万人ですがこれで充分です。劉備どのは、私が敵を打ち破るのをゆっくり見ていてください」と言った。劉備は後方に下がって、見守った。周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、曹操軍は敗退して長江北岸に引き揚げた。周瑜らは長江南岸(赤壁)に布陣。その数日後、孔明が風を吹かせて曹操軍を焼き払う。

敗走する曹操軍との江陵の戦いにおいて周瑜は矢傷を負うが曹仁を敗退させ、その功により孫権は周瑜を都亭侯に任じた。

だがこの後、すべてを孔明に見透かされていた周瑜は天を仰いで「既に周瑜を生みながら、何故諸葛亮をも生んだのだ!」と血を吐いて憤死する。

 

神武東征

神武天皇(劉備・亀)は兄の五瀬イツセ命(ウサギ)と相談する。

「どの地に行けば天下を泰平にすることが出来るだろうか?」

日向から筑紫(豊後の宇沙ウサ)へ辿り着くと、宇沙都比古ウサツヒコ・宇沙都比賣ウサツヒメの二人がご馳走しました。

そこから筑前に一年・安芸に七年滞在。さらに吉備に八年。

そこから亀の甲に乗る宇豆毘古ウズビコ(周瑜)に出会い、「供をするか?」と尋ねると「お仕え致しましよう」と申すので、槁根津日子サヲネツヒコという名前を与える。

さらに難波の湾を経て河内の白肩の津に船を泊める。

この時、那賀須泥毘古ナガスネビコが軍を起こして向かって来たので、楯(わら人形・亀の甲)を取って降り立つ。

兄のイツセ(周瑜・ウサギ)は矢の傷を負う。南の方に廻る。イツセは血を洗うが「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのは残念だ」と叫んで死ぬ。

 

宇佐神宮の御祭神は応神天皇。関羽である。

劉備は桃園にて関羽(ウサツヒコ)・張飛(ウサツヒメ)と義兄弟の契りを交わす。

公孫瓚・陶謙・曹操・袁紹・劉表とお世話になる。

足の遅い劉備が足の速い周瑜に勝った物語

 

第三十七章 ~死せる孔明、生ける仲達を走らす~

 

諸葛亮は五丈原の戦いの最中に過労で衰弱しきっていたため自らの死期を悟り、延命の術を試みる。しかし、儀式の成功間際に魏延が報告のため儀式の祭殿に飛び入ってきてこれを壊してしまい、祈祷に失敗。その後病没する。星占いにて大きな星が落ちるのを見た司馬懿は諸葛亮が死んだと判断し蜀軍に攻め込んだ。しかし、生前に諸葛亮が作らせた彼の木像を見て肝をつぶし撤退した。このことを後に人々が「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いはやした。ある人がこのことを司馬懿に報告すると「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない」と答えたという。

 

ヤマトタケルは非常に疲れたので杖をついてゆるゆると歩いた。尾津の岬の一本松の元に辿り着き歌う。「一本松よ。お前。一本松が人だったら太刀をはかせるのに。着物を着せるのに。一本松よ。お前。」

 

応神天皇はマッコリに酔って歌いながら杖をついて歩く。杖で大きな石を打つと、その石は逃げ走った。それでコトワザに「堅い石でも、酔人に会うと逃げる。」という。

 

タケルは病気が非常に重くなった。そこで歌う。「置いてきた良く斬れるあのクサナギ(魏延を斬った馬岱)。あのクサナギはなあ。」そう歌い終わって亡くなる。

ヤマトタケルは白鳥になって飛んでゆく。

 

孔明は白地に黒く縁を取った鶴氅(カクショウ)という、鶴の羽毛で作った着物をまとい、羽毛扇を持つ。

孔明の木像ですが、これを造ったのは孔明の妻・黄月英。彼女が木で造った人形は孔明すら逃げ出す程の上手さだった。この魂は仏師になって受け継がれている。

 

第三十八章 ~クジャク姫~

 

三顧の礼の時にも紹介したように、木のかげから見ていた狩人に羽衣を隠された娘は、クジャク山の王さまの七番目の王女で、クジャク姫という名前でした。魔女と疑われたクジャク姫が羽衣を付けて舞を舞う。すると悪い心の人も清らかな心になります。竹取物語で月の民が現れた時もそうでしたし、ナウシカが青い衣を身にまとった時もそうでしたね。羽衣を着たクジャク姫は、空のずっと向こうに飛び去って行きました。やがて狩人と出会った湖に来て、白いヒゲをはやしたおじいさんに「狩人が来たらこれを渡してください。」と言って金の腕輪を渡し、泣きながらクジャク山(月)へ飛んでゆきました。姫の行方を探した狩人がその湖に辿り着くと、おじいさんは金の腕輪を渡し、人間の行ける場所ではないから諦めろと言うのですが、「どんなめにあっても構いません。私は姫に逢いたいのです。」そう述べる狩人に魔法の弓と三本の矢を渡します。日本では三枚のお札として語られます。一本目は落ちてくる岩を止めました。二本目は煮えたぎる川の中。赤い龍が橋になります。三本目は炎の砂漠。オオトリの背に乗ります。空高く舞い上がりクジャク山に着くと、泉のほとりで一人の娘が水を汲んでいました。尋ねるとクジャク姫のところへ汲んでいるのだそう。狩人は金の腕輪をこっそりとその水桶の中に入れます。クジャク姫が水桶の中を見ると、自分の腕輪が光っていました。「あの方が、来て下さったのだわ!」二人はしっかりと抱き合います。

 

第三十九章 ~豊玉姫~

 

魚を釣りに出かけた山幸彦は兄の針を失くしてしまいます。鹽椎(シオツチ)神に教えてもらい、山幸彦は小船で海神(ワダツミ)の宮に辿り着きます。門のそばの木の上にいると、王女である豊玉姫の侍女が玉の器を持って井戸へ水を汲みに現れました。山幸彦は「水を下さい。」と言って首に付けていた珠をその器に入れます。器の珠をみて豊玉姫は侍女へ尋ねました。「門の外に人がいますか?」二人は結婚し、山幸彦は三年の間その国に留まった。