2024.4.25

軍師である諸葛亮孔明は基本的に建内宿禰タケシウチノスクネであるが、仲哀天皇の妻・息長帶オキナガタラシ姫。つまり神功皇后でもある。

 

仲哀天皇(劉禅)が琴を弾き、タケシウチノスクネが神の仰せを伺うと、神功皇后に神がかりする。

「西の方に国がある。その国を授けよう。」

仲哀天皇はこれを信じなかったので、崩御する(200年)。

神功皇后が新羅と百済を征伐する。三韓征伐と呼ばれるが古事記では二韓だけであり、百済に至ってはすぐに降伏している。

 

関羽の弔い合戦である夷陵の戦いにおいて呉に大敗した劉備は病が重くなり、白帝城にて崩御する(223年)。二年後に孔明は南蛮を平定。当初は高定・雍闓・孟獲の三名が対象だったが、孔明が南進する時すでに雍闓は高定の部下に殺害されていた。そのため高定を斬殺し、孟獲と対峙する。孔明は7度孟獲を捕獲し、7度孟獲を釈放したとされる(七縦七擒)。

 

※諸葛亮の南征時、風が強くなって渡河できないことがあり、孟獲は、猛り狂った神のたたりであるとして、人頭と動物を生贄にしなければ、風を穏やかにすることはできないと述べた。しかし、諸葛亮は、人頭を用いるのが極めて残忍であるとして、小麦粉を人頭の形に丸め、中に牛肉や羊肉を入れたものを作成し、饅頭と名付けたとされる。