2023.5.10

旧約聖書の家系図と古事記の家系図を比較し

 

古事記は明らかに旧約聖書を原本にしているという論文を

YouTubeにアップしました。

 

こちらのブログではさわりの部分だけ

ご紹介いたします。

 

もしも気になりましたら

こちらの解説動画をご覧ください



スサノオと八俣遠呂智ヤマタノオロチ

 

ユディト →【速須佐之男命】

ホロフェルネス →【八俣遠呂智】

 

中巻でヤマトタケルはユディトをモデルとしていると述べたのですが、もう一方でスサノオとヤマタノオロチの戦いのモデルともなっています。ユディト記から抜粋しておきます。

 

アッシリア人の王ネブカドネツァルは、軍総司令官で自分に次ぐ地位にあるホロフェルネスを呼んで命令を下した。「武勇を誇る者歩兵十二万と多くの騎馬および一万二千の騎兵を率いて西方に向かいその全域を討て」。ホロフェルネスは西方全域を覆い尽くそうと、全軍を率いて出発した。それはいなごの群れのようであり、また地の砂のように多くて数えきれないほどであった。イスラエル人は、周囲をすっかり敵に包囲されて脱出することがかなわなくなり、士気を失い神なる主に向かって叫びをあげた。ユディトは長老たちに言った。「今晩、あなたがたは町の門のところにいてください。わたしは侍女と共に町を出ます。」彼女は髪を整えて髪飾りを付け、晴れ着をまとった。四日目のことであった。ホロフェルネスは従者たちだけのために酒宴を催した。「あのような女を抱かずにほうっておくのは我々の恥だ。」ホロフェルネスは彼女を前にしてすっかり良い気持になり、一日の量としては、生まれてからまだ一度も飲んだことのないほど多量のぶどう酒を飲んだ。ユディトはホロフェルネスの寝台の傍らに立ち、心の中で祈った。彼女はホロフェルネスの枕もとの、彼の短剣を抜き取った。

 

古事記は読んだことがないという方が残念ながらほとんどかと思いますが、スサノオとヤマタノオロチの話はなんとなく知っている方がいるかと思います。巨大なヤマタノオロチに沢山の酒を飲ませて酔いつぶれた所を襲うやつです。スサノオは姫の姿を櫛に変えて髪に付けます。そしてヤマタノオロチの尾を切った時にクサナギノツルギが出てきます。この剣でとどめを刺すお話です。ユディト記とほぼ同じ。櫛なったヒメは櫛名田比賣クシナダヒメ。他の文献では尾から出た剣を天叢雲剣アメノムラクモとし、ヤマトタケルの時にクサナギノツルギと呼ぶようになったとしていますが、古事記では初めから一貫して草那藝之大刀。

 

三種の神器

 

ソロモン王の時代に「箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。」とされるイスラエル神宝。

 

石板 → 八咫鏡ヤタノカガミ

マナの壺 → 八尺瓊勾玉ヤサカニノマガタマ

アロンの杖 → 草那藝之大刀クサナギノダイトウ

 

こういう噂が多いと思います。実はイスラエルの神宝はすべて日本に伝わっていますが上記のような「もの」ではありません。これを一つ一つ解説していきます。

 

マナ

マナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。モーセはアロンに言った。「一つのつぼを取りマナ一オメルをその中に入れ、それを主の前に置いて子孫のためにたくわえなさい」。イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。

民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。

 

マナ=米。ニニギの天孫降臨の時に稲穂。持ってますよね?あれがマナです。古事記では天津久米命アマツクメノミコト。ニニギの天孫降臨の文章にさりげなく豊受大神のことも紹介しています。【次登由宇氣神。此者坐外宮之度相神者也。】先に述べたように豊受大神とは豊受姫の父であり、天之御中主神の米に関する部分。宇氣ウケとは稲。伊勢神宮で「参拝は外宮が先」なのは外宮の御祭神【豊受大神(天之御中主神)】の子孫が内宮の御祭神【天照大御神】だからです。御饌殿で朝夕二度の食事を供えるのは授かったマナへの感謝。外宮の御神体がマナの壺という噂もありますが、壺自体あってもなくても構わないと思います。大事なのは、米。

では、実際に日本に水稲が伝来した時期はいつ頃とされているか?福岡県の板付イタヅケ遺跡や佐賀県唐津市の菜畑ナバタケ遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。水流をせき止めて調整する柵シガラミもありました。年代からいうと、菜畑遺跡は今から約2700年ほど前のもの。板付や菜畑における水田では、非常に整備された形で水稲耕作が行われていたらしく、縄文晩期には大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作をおこなっていたと考えられる。

 ※真名板。真魚板。神聖なものを調理する為の板。

 ※米という字は、「」に米粒が四方に飛びちったところを表した象形文字(農林水産省)

 

アロンの杖

先ず、旧約聖書と神道に共通しているあることを理解しなくてはなりません。それは、偶像を崇拝しないということです。モーセの「青銅の蛇」も、人々が崇拝した為に破壊されました。それと、仮にもイスラエルから神宝が運ばれたと思うのであれば、「日本で見つけた」草那藝劔は該当しないですよね?では、アロンの杖とは何か?12部族の親となったヤコブは天使と相撲をしました。この時に「イスラエルの名」を授かります。これがアロンの杖なのです。杖とはその象徴でしかなく、水戸黄門にとっての印籠と同じ。印籠が大事なのではなく、大事なのは「王としての名」であり、「誇り」。それが草那藝劔なのです。上巻で天使=龍とお伝えしました。出雲にたどり着いたスサノオがヤマタノオロチ(龍)と戦って草那藝劔を得る姿と、ヤコブが天使と戦って「名」を授かった姿は、まったく同じシーンなのです。

 

 

石板

ソロモン王の時代に「箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。」とされるイスラエル神宝。唯一実物があるとしたら「八咫鏡」。ただしこれも、大事なのは鏡とか石板とかではなく、そこに記された十戒。シナイ契約・モーセ五書・トーラーなどとも呼ばれる旧約聖書最初の5書に記されている、神から与えられたモーセの律法は613の命令から成り立っていてその最初にでてくるものがこの十戒であり要約なのです。実はこれ、現在の日本の法律や神道・日本人のモラルに含まれています。

 

・他の神々が、あなたのためにわたしの面前にあってはならない。(天之御中主神・大物主や豊受御大神以外は基本的にご先祖様となる。龍神は神の使い)

・あなたは自分のために像を作ってはならない。(神道は偶像を崇拝しない。だから古事記の絵画も少ない。)

・あなたは、あなたのヤハウェの名を、空しいことのために唱えてはならない。(神道は天照大御神が皇祖神で天之御中主神や豊受御大神ではない。要するにカモフラージュ。)

・安息日を覚え、これを聖別しなさい。(日曜日)

・あなたはあなたの父と母を重んじなさい。

・あなたは殺してはならない。

・あなたは姦淫してはならない。

・あなたは絶対に 盗んではならない。

・あなたはあなたの隣人に対し、偽の証言をしてはならない。

・あなたはあなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 

偶像崇拝に関して、仏教は認めないのかというと、認められてます。逆に認められていなかったら日本はとっくに滅びてます。バアル像やアシラ像を崇拝した南ユダ王国や北イスラエル王国のように。

 

中巻で述べたように、十戒は十種神宝として伝わりました。神武天皇が天皇であるゆえん(十種神宝)を、大陸から渡って来た人も持っていた。百濟國から来た秦氏や(統一)新羅國から来たアメノヒボコは天皇家と同族だったと言ってもいいのではないでしょうか?だから(統一)新羅国王の子であるアメノヒボコの家系図の最後に神功皇后を持って行ってしまった。そして『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』で第15代天皇、初の女性天皇とされていた神功皇后は大正15(1926)年の皇統譜令により正式に歴代天皇から外されてしまう。

 

三種の神器のラスト、石板・八咫鏡は十戒であり、日本人のモラルです。実物うんぬんは分かりません。無くても良い。

 

また、三種の神器は儒学でこのように述べられます。

八咫鏡 → 知

八尺瓊勾玉 → 仁

草那藝之大刀 → 勇

 

知は日本人としてのモラル。

勇は日本人としての誇り。

こう考えると、とてもしっくり来ます。

イスラエルの神宝はすべて日本に伝わっていると述べたのはこういうことです。

 

契約の箱

では、旧約聖書で契約の箱のことを最後に表記したのは、どの王の時代か?

 

イザヤは言った「彼らはあなたの家で何を見ましたか」。

ヒゼキヤ「わたしの倉庫のうちには、わたしが彼らに見せない物は一つもありません」。

イザヤ『主は言われる。バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。

この会話の15年後に第14代マナセが王になる(紀元前716年~紀元前687年頃)

 

ユダ王国第16代ヨシヤ王(紀元前640年頃即位)

宮の破れを繕わせなさい。→主の宮で律法の書を見つけました。

ヨシヤ王はその律法の書の言葉を聞くと、その衣を裂いた。

ソロモンの建てた宮に、聖なる箱を置きなさい。再びこれを肩にになうに及ばない。

とあります。

 

旧約聖書でずっと「主の契約の箱」と表現していたのに、ヨシヤ王が突然「聖なる箱」と呼び、もう担がなくても良いと述べています。分かりますでしょうか?ヨシヤ王の時代には主の宮が破壊されており契約の箱は盗まれていたのです。そして代わりに置かれていたのが律法の書。最も怪しいのは預言者イザヤとヒゼキヤ王の会話の直後なのです。そうなるとマナセ王の即位年が紀元前716年~紀元前687年頃なので、契約の箱が盗まれたのは紀元前731年頃~702年頃とまで絞れます。

 

マナの説明の時に日本への水稲の伝来が約2,700年程前とお伝えしました。つまり紀元前700年頃です。近いですよね?契約の箱が南ユダ王国から盗まれた年と。契約の箱の中に入っていたのは石板と米です。米はもちろん何らかの壺に入っていたでしょうが。

 

日本書紀に、60年に一度訪れる辛酉カノトトリの年と表記されていたことから神武天皇即位年を紀元前660年と制定したのは明治5年。わりと最近のことです。日本書紀を信じるにしても紀元前720年や紀元前600年も候補になり得る。おそらくですが紀元前660年とはニニギの天孫降臨。つまり九州への水稲の伝来であると考えております。ニニギは天の孫であり、あくまでも誰かの3代目なのです。では契約の箱を持ち出し最初に日本に来た初代とは誰か?もちろんイザヤの可能性もあります。イザヤ=イザナギ説もありますし。ただ、旧約聖書にイザヤ書が記されている以上、イザヤ書の中身が南ユダ王国を旅立つ前に書けたかどうかを考慮しなくてはなりません。

 

「東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。わたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、荒野を池となしかわいた地を水の源とする。海沿いの国々はその教を待ち望む。栄光を主に帰し、その誉を海沿いの国々で語り告げよ。わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく心に思い起すことはない。わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする。」

 

この段階で神武天皇の誕生年を見てみましょう。紀元前711年とあります。契約の箱が盗まれたのは紀元前731年頃~702年頃と先に述べました。多分ですけど、神武天皇の誕生年とは契約の箱の旅立ち年だと。

 

年表

 

ややこしくなってきたのでそろそろ年表にします。

日本を造ったとされるイザナギイザナミから神武天皇崩御まで。これを全部合わせて神武天皇と呼んでいるのではないかと思います。神世七代のように。

 ※参考までにナントカ天皇という諡号シゴウは古事記成立より後のこと。

日本で実際にあったことの予想。

紀元前711年に契約の箱を持って南ユダ王国を出発したユダ族とレビ族が琉球に到着。琉球にアダムとイヴの伝説が各地に残る。何かの原因でダン族(蛇)が別れ、対馬海流に乗って出雲方面へ。残った11部族は淡路島の沼島に上陸【国生みのやり直し】。現在島に祀られているのは伊邪那岐と伊邪那美であり島の南端には天の御柱。いったん四国の剣山に契約の箱を祀る。この上陸した伊邪那岐・伊邪那美神を天照大御神と月読神のペアに置き換えた(月読神の正体が伊邪那美神であることは上巻にて)。これこそ天照大御神が皇祖神である由来。古式神道の伝来。そのまま海を越えて西へ進み(金刀比羅宮に大物主が祀られていることからここに一度契約の箱を移動している可能性がある)、アマテラスの孫の代に高千穂峰(北緯31度)に降臨し、平野と水源を求め高千穂町のくしふる神社の雨の眞名井マナイ(北緯32度)で水稲(マナ)を広める(紀元前660年ごろ)【天孫降臨】【弥生時代突入】その地で三代過ごす【日向三代】。青島に寄ったり鵜戸で出産したりはあり得る。ユダ族レビ族などが日向で三代を過ごす間、常陸國に鹿紋章ナフタリ族の天尾羽張神・建御雷神上陸。出雲國に蛇紋章のダン族上陸。蛇信仰だった縄文人とうまく習合し、先にダン族が奈良和歌山熊野三山を平定。邇藝速日のような存在を祀る。ダン族と習合しなかった縄文人で、北に逃れた若しくは影響を受けなかったものがアイヌ民族。蝦夷。南に逃れたものが琉球民族。隼人。ニニギからの四代目(単体でも神武天皇とされる人物)が九州から東征し、奈良にてお互いがダン族とユダ族であることを確認しあう(天羽々矢アメノハバヤと歩靫カチユキ)。ダン族は西征して来たナフタリ族と東征して来たユダ族に国を譲る。【国譲り】【神武天皇即位】【実際に即位したのがニニギの4代目】(紀元前600年辛酉)。神武天皇即位を確認後に主が南ユダ王国を滅ぼし始める。契約の箱を三輪山に祀る【大神神社】。ダン族はいったん【諏訪大社】を任せられる。南ユダ王国が新バビロニア帝国により滅亡。ソロモン神殿破壊(紀元前586年)。【神武天皇崩御】(紀元前585年)。神武天皇は即位してからの記述がほとんどないことを考えると、これぐらいが丁度かと思われます。

 

【神武天皇】の代で蛇紋章のダン族は上陸した出雲国で【出雲大社】を任せられる。セグロウミヘビが神の使い。これは彼らが対馬海流に乗ってやって来たことを表す。【神武天皇】の元年と18年に鹿紋章のナフタリ族は上陸した常陸国で【香取神・鹿島神】を祀る。鹿が神の使い。【崇神天皇】の65年に【紀州國熊野本宮大社】を祀る。ダン族の烏の紋章で八咫烏が神の使い。

 

多分ですけど、神という諡号を与えられた特別な四名。神武天皇・崇神天皇・応神天皇・神功皇后は旧約聖書と照らし合わせながら、実際に日本にいた王の何世代かをまとめていると思われます。そして卑弥呼は神功皇后の中に含まれている。

 

そう思えるぐらい初期の天皇の生存年数含めてぐちゃぐちゃなのですが、実は要所要所で西暦とピッタリ合わせている点もあります。


紀元前4年 【垂仁天皇】の26年として、キリスト誕生に合わせる形で【伊勢神宮】を祀ったとする。

 

紀元前4年頃 イエス・キリスト誕生。【垂仁天皇】の系譜に大筒木垂根王の娘として迦具夜比賣カグヤヒメが示される。キリストのように妊娠せずに生まれるという概念を示す。月の民。

 

70年 第2ソロモン神殿(エルサレム神殿)破壊。同時に【垂仁天皇崩御】

 

5世紀頃

古事記に【応神天皇(3世紀頃)】の代で百済・新羅から渡来したと表記される渡来人(ユダ族)と十種の瑞宝を確認しあう。この頃に陰陽五行や五芒星・六芒星が伝わったと考えられる。ただし五芒星・六芒星は魔除けであり、六芒星=ユダヤではない。六芒星をダビデの星としたのは14世紀ごろ。六芒星は日本の紋章だと籠目カゴメである。一ノ宮である籠コノ神社の奥宮、眞名井神社の神紋が籠目だった。この渡来人が現在の神道を形づくる。つまりイスラエルからの渡来は紀元前700年頃と合わせて大きく分けて2回。漢字は渡来人が伝えている。

漢字が伝わるまでは日本が変形したヘブライ語を使っていた可能性は十分にある。

 

538年 仏教伝来

593年 ユダ族秦河勝が【四天王寺】建立。秦河勝は猿楽の始祖。能の観阿弥・世阿弥は河勝の子孫を自称

622年 ユダ族秦河勝が【広隆寺】建立。秦河勝は聖徳太子の側近であり、強く影響を与えた人物。

645年 中大兄皇子らが乙巳の変 大化の改新へ 天皇記・国記が焼かれる 漢字で書かれた旧約聖書・新約聖書が焼かれる

660年 百済が唐と新羅に滅ぼされる。渡来していた百済の王子、扶余豊璋フヨホウショウが帰国を決意。

661〜3年 女性天皇【斉明天皇】が百済復興の為に朝鮮半島へ出兵を決意。【斉明天皇】は661年に急逝し、中大兄皇子が出兵。白村江ハクソンコウの戦い 日本は新羅と唐に破れる。

672年 古代史上最大の戦乱 壬申の乱

690年 【伊勢神宮】で式年遷宮を始める。これにより正確な建立時期が分からなくなる。

701年 ユダ族秦氏が【松尾大社】創建。修験道の開祖であるレビ族の役小角(役行者)誕生。レビ族と山伏が非常に酷似する。

711年 ユダ族秦伊呂具が【伏見稲荷大社】創建。全国に【稲荷】を建立。INRIとは IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM ユダヤの王、ナザレのイエスの略であり、これが稲荷の語源とされる話はもう有名。

712年 古事記成立

716年 ユダ族秦泰澄が白山を開山「泰澄和尚伝記」

725年 ユダ族秦氏が宇佐に【八幡ヤハタ神】を祀る。伊勢神宮につぐ第二の宗廟とされる。ヤハタが万軍の主ヤハウェなら八幡と稲荷で三位一体。

794年 ユダ族秦氏が平安京遷都に財力と技術を提供 第3エルサレム神殿

876年 祇園天神を【八坂神社】に祀る 祇園Gion=シオンZion。後に習合した牛頭天王は祇園精舎(仏教)の守護神とされるがインドにその話はなく、日本独自。むしろ新羅国の牛頭山が由来とすらされる。

 

 ※現在日本の神社で圧倒的に多いのは八幡と稲荷。八幡神に応神天皇を合祀したのは後になってから。では誰もが知るこの八幡と稲荷。古事記にまったく出て来ない神様であることに気付いていますか?おおよそ日本神話とは関係のないこの神様たちをこれだけ普及させるのにオッケー出しますか?宇佐に突然祀られた当時は謎の神様が伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟って、良く信じさせられたなと。

イチキシマヒメはまだ分かります。インドの水の神様サスラヴァティーと習合させて弁財天としたから。イナリに至っては未だに単独。

 ※伊勢神宮には心御柱シンノミハシラというものがあり、それは二本の柱をある形に組んであるという。ここまで読んだ方ならば、ある形とはなんなのか。想像がつくと思います。

 ※ここまでの話を信じるならば皇族はユダ族の末裔となります。アダム・イヴやノア・アブラハム、ダビデ・ソロモンの子孫なのです。ちなみにモーセとかカイン・アベルは親戚のおじちゃん。もちろん私たちもユダヤ人が祖先。

 

仮庵祭

 

ここから下は多分、神道で隠されていることになります。

 

ダン族はユダ族に国を譲って出雲へ追いやられたのではなく、出雲で重要な神事を任されているというお話です。

 

ユダヤ人の祭りの中でも最も喜ばしいものとされている祭り。仮庵カリイオの祭。レビ記にその内容が記されています。

 

七日の間、主の前にそれを守らなければならない。初めの日に聖会を開かなければならない。どのような労働もしてはならない。また七日の間、主に火祭をささげなければならない。八日目には聖会を開き主に火祭をささげなければならない。七日の間、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。

 

上記は太陽暦で10月に7日間行われる。初日に聖会・8日目に聖会。ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は木の枝で仮設の家(仮庵)を建てて住む。40年間、荒野で仮庵を建てて生活したことを覚えるための祭りであり、その時にマナを与えらた神の恵みを思い起こす喜びと祝いの祭り。

 

次に、出雲大社で行われている神在月カミアリヅキの内容をご紹介致します。

 

旧暦の10月に7日間行われる。前日に神迎祭カミムカエサイ。浜で御神火が焚かれる。これが終わると、神々は旅(宿)社である東西の十九社に鎮まられる。この祭事期間、土地の人は第宅テイタクを営まず(家を建築しない)。7日目に神等去出祭カラサデサイ。

 

いかがでしょうか?出雲観光ガイドには

大国主が「国譲り」をなさったとき、これからは、私は隠退して幽カクれたる神事を治めましょう」と申された記録があります。とハッキリ書いてあります。

 

次に出雲大社の本殿が南を向いているのに御神座(大国主)が西を向いている理由です。

 

出雲大社 北緯35度24分

エルサレム 北緯31度47分

 

大国主が見ているのはエルサレムなのです。

エルサレムとほぼ同じ北緯の高千穂峰には逆鉾が刺さっていますね?年表の時に触れましたが多分あそこが天孫降臨位置だと思います。あの刺さっているのは天沼矛である可能性すらある。

 
ソロモンがエルサレム神殿を建立した時に捧げた祈りの内容を記しておきます。
 
「彼らがあなたの選ばれた町(シオン)に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。」
 

上・中・下 もしここまで読んでくださった方がいましたら私は幸せです。ありがとうございました。最後になりますが、旧約聖書では度々 敵国の民を「大きい」「背の高い」と表現しています。敵が強大なことを示しているのだと思っていましたが ふと、このようにも思うのです。12部族って、小さかったのでは?と。私はこれからも神社へお参りに行きます。今までと何も変わらずに。だって、インドの神様を受け入れたんだから、イスラエルの神様を受け入れるのも同じことでしょ?

 

 

※追記

ここまでが全部本当だったとすれば、日本書紀には登場するけど古事記には登場しないと言われている神様って、別の名前で古事記に出てるはず!

 

菊理媛ククリヒメに関して

 

日本書紀では黄泉の国での伊弉諾イザナギと伊弉冉イザナミの間を取り持った風に描かれている。イザナギに何かを伝えそれをイザナギが誉めたと記されている。

 

古事記の黄泉の国で伊邪那岐イザナギと伊邪那美イザナミの間に入った神様がこちら

 

塞坐黃泉戶大神フサガリマスヨミドノオオカミ

豫母都志許賣ヨモツシコメ

 

この二柱は多分該当しない。では、

 

意富加牟豆オオカムズミ命

 

追ってきた八雷神とヨモツシコメに対してイザナギが投げた桃の事です。イザナギは後世の為にこの桃に願いを託します。「患惚時クシタシナマムトキニ。可助告タスケテクレ。」(苦しむときに助けてくれ)と。神道において「クシ」という言葉が重要な意味を持つことを私は知っています。ではこのイザナギが発した「クシ」という言葉はどこからだと思いますか?実はこの桃の神様、旧約聖書では「クシ」という人物が該当するのです。大国主の和御魂の「クシ」御魂である大物主にも関係し、意富美和之大神オオミワノオオカミとして名前を引き継ぎます。

 

話を菊理媛に戻しましょう。

桃の神様オオカムズミと同一の存在である女性の神様が一柱だけ思い当たるのです。

 

名田比賣クシナダヒメ

(日本書紀では稲田姫クシイナダヒメ)


ヤマタノオロチ退治の時、櫛になったヒメです。スサノオと彼女が結婚することで後に大国玉が生まれます。ここで大物主の別名をご紹介しますね?「ムスビの大神」です。段々近づいて来ましたね。「括るヒメ」菊理媛と(菊理媛=大物主も考えられるが、出来れば女性でありたい)。そして櫛が髪を結う存在。これは強引でしょうか?クシナダヒメは氷川神社や八坂神社で夫のスサノオと共に祀られています。今でこそ八坂神社の御祭神はスサノオとクシナダヒメですが、以前は牛頭天王ゴズテンノウと頗梨采女ハリサイジョでした(本殿の下には龍穴があります)。このハリサイジョの本地仏が十一面観音であり、菊理媛の本地仏と一緒になります。まあだからといってククリヒメ=クシナダヒメとはならないのですが。なお、ククリヒメは黄泉の国でイザナギとイザナミの間を取り持ちました。ヤマタノオロチを退治したスサノオはクシナダヒメと共に根堅州國ネノカタスクニに住みます。ネノカタスクニとは黄泉の国なのです。つまりどちらも黄泉の国に居たことがある。また、クシナダヒメは稲の神様として祀られています。稲の神様としてここまで述べてきたのは誰だったでしょうか?豊受大神です。中巻で天之御中主命神=大物主=豊受大神と説明しました。ではここまでの時点でククリヒメとクシナダヒメの共通点は「黄泉の国と大物主」(意富加牟豆美→意富美和之大神)。つまり「豊受大神」で共通するとも言い換えられます。するともう一柱、あるヒメが浮かび上がります。

 

豐宇氣毘賣(豊受姫トヨウケビメ)

 

豊受大神の娘で稲の神です。ん~限界ですかね。

苦しいついでにもう一つ。『泰澄和尚伝記』によると、泰澄が出会った九頭龍から姿を変えたのが十一面観音であり、これが白山大権現ハクサンダイゴンゲン・白山比咩シラヤマヒメ大神と呼ばれ、後に菊理媛と呼ばれるようになる(ククリヒメの語源として九首龍もある)。もしこの九頭龍が、クシナダヒメ(+スサノオ)の倒したヤマタノオロチの改心した姿だとしたら?京都府福知山市の元伊勢内宮皇大神社を訪れ、その配置からずっと天手力男アメノタヂカラオ神と九頭龍、八岐ヤマタは非常に近いと感じており、決して的外れではないと思っています。戸隠神社もそう。八股ヤマタならば頭は九つという意見もありますしね。

ククリヒメは日本書紀に一文だけしか登場しないので、これ以上の考察は苦しいですが、極めて興味深い存在です。

 

別の見方もあります。そもそも泰澄が平泉寺白山神社の泉で出会った女神が、自分のことをイザナミであると述べたこと。ここから白山の開山が始まります。そして頂上で九頭龍や十一面観音と出会い、白山妙理権現と名付けた経緯があります。この白山妙理権現が白山比咩シラヤマヒメと呼ばれるようになり、何故か菊理媛と呼ばれるようになる訳です。上巻で表したように、イザナミが2人であるならば。黄泉の国でイザナギと対立したのはヨモツオオカミと呼ばれたイザナミ神。これをなだめたのがイザナミ命と考える。これは面白い考えだと思います。福井や加賀の白山神社祭神に多いのがイザナギ・イザナミ・ククリヒメの三柱のパターン。いずれにせよ

括る菊理媛(十一面観音)=ムスビの大物主

菊理媛(十一面観音)=イザナミ命(十一面観音)

菊理媛(十一面観音)=クシナダヒメ(十一面観音)

この辺りは注目に値すると思います。

 

なお、『祇園牛頭天王縁起』によると頗梨采女は八大龍王「娑伽羅龍王」の三女であり、清瀧権現や善女龍王とも同一視される。