2023.5.10

旧約聖書の家系図と古事記の家系図を比較し

 

古事記は明らかに旧約聖書を原本にしているという論文を

YouTubeにアップしました。

 

こちらのブログではさわりの部分だけ

ご紹介いたします。

 

もしも気になりましたら

こちらの解説動画をご覧ください。

 


 

 サウル王

 →【仲哀天皇】⑭

 サウル王の子ヨナタン

 →【神功皇后】

【仲哀天皇】⑭の妻であり、【崇神天皇】⑮の母

 

 ※サウル王は神の意志に背いて死んでしまう。仲哀天皇も神の教えに従わなかった為、突然こと切れる。仲哀天皇が琴を弾きながら死んだのは、サウル王に琴を弾いていたダビデを表している。

 ※ダビデを殺そうとするサウル王を古事記では八十神と描いたり大国主を試すスサノオとしても描いている。ダビデがサウル王の上着のすそを切って危機を逃れたことを古事記では蛇比禮ヘビヒレとしており、サウル王の枕もとから、やりと水のびんを取って去り、やはり危機を逃れたことを呉公蜂之比禮ムカデトハチノヒレと表現している。

 ※ヨナタンはダビデと何度も愛し合う。古事記では神功皇后のお腹に崇神天皇が宿っていると表現している。欠史八代の時にヨシュアが崇神天皇だったのだが、ここからはダビデが崇神天皇&大国主とされる。

 ※旧約聖書でヨナタンが3本の矢を放つ。古事記にその表記はないが、神功皇后が3本の矢を放つことは破磐神社に描かれている。

 

 ヨナタンの子メピポセテ →【少名毘古那神】

 

 ※メピポセテは両足ともに、なえていた。スクナビコナは小さいとされ、一寸法師にもたとえられる。ダビデはメピポセテを敵に引き渡し、メピポセテは殺される。古事記で大国主とスクナビコナが共に国造りをするシーンが描かれないのはそのせい。

 

ダビデの勇士37人

 三勇士の一人エレアザル →【建御雷之男】

 

 ※手がつるぎに着いて離れないほどになった。古事記ではタケミカヅチの手が剣になっている。

 

 エホヤダの子ベナヤ →【八重言代主ヤエコトシロヌシ神】

 

 ※姿のうるわしいエジプトびとを撃ち殺した。そのエジプトびとは手にやりを持っていたが、ベナヤはつえをとってその所に下っていきエジプトびとの手からやりをもぎとって、そのやりをもって殺した。古事記では天逆手と表記している。なお、ベナヤもかの三人(三勇士)には及ばなかった。と述べられており、古事記の国譲りで事代主はタケミカヅチに勝てない。旧約聖書ではダビデがベナヤを侍衛の長とした。大国主が国を譲る時も、「事代主を導きとして仕えたから背くものはない」と述べている。

 

ダビデの勇士37人 →十七世神トオマリナナヨカミ

 

反乱したアブサロム →【天若日子アメワカヒコ】

 

 ※ダビデの子アブサロムは反乱を起こし、殺される。古事記では国譲りの使いでアメワカヒコが使わされるが、アメワカヒコは自分でその国を得ようとする。それが反乱と見なされ、殺される。

 

アブサロムの反乱のあと新たに抵抗した

ビクリの子シバ →【兄宇迦斯エウカシ】

ひとりの賢い女 →【弟宇迦斯オトウカシ】

 

ダビデとバテシバの4人目の子ソロモン

→【垂仁天皇】⑪

 

ハギテの子アドニヤ →【大山守オオヤマモリ命】

 

 ※ダビデとハギテの子アドニヤは後継者争いで同じくダビデの子ソロモンに反乱を起こし、死ぬ。オオヤマモリは垂仁天皇の後継者争いで反乱し、死ぬ。

 

シバの女王 →【宮主矢河枝比賣ミヤヌシヤガワエヒメ】

 

 ※ソロモンはシバの女王の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った。古事記では応神天皇がミヤヌシヤガワエヒメに贈る。

 

カイン兄 →【小碓命オウスノミコト】弟

アベル弟 →【大碓命オオウスノミコト】兄

 

 ※ヤマトタケルにはモデルが3人いる。先ずは弟アベルを殺したカイン。古事記では兄を殺したオウスノミコト(ヤマトタケル)。

 

左ききのエホデ →【倭建ヤマトタケル命】

モアブの王エグロン →【熊曾建クマソタケル】

 

 

 ※オウスノミコトはクマソタケルを殺して名前をもらい、ヤマトタケルと名乗る。王エグロンを殺した左ききのエホデ(ベニヤミン族)がモデルになっていることに関して、古事記では言及されていないのに、猿投サナゲ神社に興味深い伝が残されている。オウスノミコトとオオウスノミコトの双生児を祀っており、どちらかが左ききだというのである。

 

ユディト →女装した【倭建命】

軍総司令官ホロフェルネス →【熊曾建】

 

 ※ユディト記を旧約聖書に加えるかどうかは教派によって異なる。古事記完成の当時、日本に伝わっていたのは古代キリスト教の一派 東方教会におけるネストリウス派(東シリア教会)。後に景教と呼ばれるもの。この時期の景教は原始キリスト教とほぼ同じとされる。

 敵軍に捕らえられたシメオン族のユディトは非常に美しく、魅力的な女性であった為、軍総司令官ホロフェルネスは酒宴を催して彼女を抱こうとする。寝室で二人きりになってのち、ユディトは彼の短剣を抜き取る。ユディトの祈りの中にとても大事なセリフがあるので書いておきます。イスラエルの神を「天地の主、もろもろの水の造り主」と呼ぶのです。結局のところこの記事を通して述べたいことはイスラエルの12部族が日本に渡来していること。イスラエルの神を日本の神様として祀っているのだということです。つまり日ユ同祖論。日本神話が実は巧みに隠された旧約聖書であると証明されれば、かなりの一手になると考えています。日本神話の最高神アメノミナカヌシノカミがイスラエルの神ヤハウェだとすると、水の造り主という言葉はとても心地良い響きとなる。

古事記ではヤマトタケルがクマソタケルの酒宴の中に女装して忍び込み、クマソタケルを刺し殺します。

 

 

アダム →【天之日矛アメノヒボコ】

 

 ※古事記で応神天皇の時代に渡来したとされる新羅国シラギコク国王の子、アメノヒボコ。古事記ではなく播磨国風土記に、天日槍命は剣で海をかき回し出来た島に宿った。とある。古事記のイザナギそのまま。なお、古事記に記載されているアメノヒボコからの家系図は以下のようにアダムとイブからの家系図を繰り返している。

 





ノア →【神功皇后】

 

ノアの3人の息子セム・ハム・ヤペテ

 →【応神天皇】⑮(住吉三神)

 

 ※神功皇后が海を渡るシーンは海の魚の大小問わず悉くが船を背負ったと古事記に描かれる。神功皇后のお腹の子が住吉三神であると神様から告げられる。(旧約聖書ノアの息子三人が住吉三神であることは上巻の記事に記載)

 ※伊奢沙和氣大神イザサワケノオオカミが応神天皇と名を交換するというシーンが古事記に描かれる。応神天皇はお礼に魚ナをプレゼントされるのだが、贈られたのは鼻の破れた入鹿イルカ。さらには臭かったとまで記されており、だいぶ酷い。ではこのイルカとは何か。中大兄皇子と中臣鎌足が斬り殺した蘇我入鹿ソガノイルカのことである。この乙巳イッシの変がきっかけとなり645年の大化の改新。712年に古事記完成となる。応神天皇がイザサワケオオカミから名をもらったとは中臣鎌足が自分たちのクーデターの正当性を示したもの。大化の改新時にそれまでの歴史書である天皇記・国記が焼けて失われたとされるが、もしも古事記の原本が旧約聖書であるならば、この時焼いたのは旧約聖書と新約聖書となる。日本という「国号」を初めて用いたのも、大化という「元号」を初めて用いたのも、聖書を焼くことによりイスラエルの再建ではなく「日本」の夜明けとしたのではないかと考えます。

 

 

神功皇后の三韓征伐に関して当時の激動の時代背景と共に考察しておきます。

 

630年 遣唐使の派遣開始

631年 百済の王子、扶余豊璋フヨホウショウが人質として来日。

645年 中大兄皇子・中臣鎌足が乙巳の変 蘇我入鹿を暗殺

660年 百済が新羅と唐に滅ぼされる。渡来していた扶余豊璋フヨホウショウが帰国を決意。

661〜3年 女性天皇【斉明天皇】が百済復興の為に朝鮮半島へ出兵を決意。【斉明天皇】は661年に急逝し、中大兄皇子が出兵。白村江ハクソンコウの戦いとなる。日本は新羅と唐に大敗する。

665年 遣唐使

667年 【天智天皇(中大兄皇子)】として即位。唐からの追撃に備えて都を近江に遷す。遣唐使

668年 唐が高句麗を滅ぼし、唐と新羅の関係が悪化する。日本との挟撃を恐れた新羅が日本への外交関係を低姿勢にする。遣新羅使

669年 遣唐使

671年 【天智天皇(中大兄皇子)】崩御

672年 壬申の乱で【天武天皇】即位 古代史上最大の戦乱と呼ばれる 古事記編纂を指示

673年 遣新羅使

675年 遣新羅使(この後も2回新羅へ。)

676年 新羅は朝鮮半島から唐を撤退させ統一新羅となる。仏教の中心地「王城国」として日本への外交姿勢を変える。日本との関係が悪化(低姿勢だったのは8年間)。

686年 【天武天皇】崩御

701年 大宝律令 国号「日本」

707年 【元明天皇(中大兄皇子(天智天皇))の第4皇女】即位

712年 古事記完成

 

まず述べたいのは、古事記に表記されている新羅とは、「統一新羅」と「新羅」の2種類がある。ということです。何故こんなことを言うかというと、日本に渡来した新羅国王の子アメノヒボコの7代目が神功皇后と古事記に明記しているからです。新羅の子孫から皇族を輩出している。どうして?上記の年表660年から古事記完成712年まで新羅はほぼ一貫して敵国。ならばこう考えたらどうだろう。新羅の王子アメノヒボコとは渡来していた百済の王子フヨホウショウなのでは?古事記完成の時点では百済という国が滅亡していて存在しないので(統一)新羅の王子として書いたのではないか?秦氏などもいた百済人がユダ族なのはほぼ確定している。つまりアメノヒボコが百済の王子なら神功皇后もユダ族と言える。もしそうであれば後述する十種神宝はすべて百済からの渡来となる。神功皇后の朝鮮出兵は一般に三韓征伐と呼ばれるが、古事記では新羅と百済の二国が従う話。そもそも三国ではない。そしてこの旧新羅と旧百済を神功皇后が従えさせて(統一)新羅を成し遂げた。古事記に書いているのはそういうことなのではないか?上記の年表でいうところの661〜3年の白村江の戦いがほぼそのまま古事記に描かれている。急逝した女性天皇【斉明天皇】を急逝した【仲哀天皇】とし、引き継いだ【中大兄皇子】を【神功皇后】として。日本の大敗はもちろん隠して。630年から遣唐使を送っていながら日本には大国である唐を敵に回してまでも百済を復興させる理由があった訳です。

もう少し掘り下げます。滅んだのは中間に合った高句麗と百済。先ほど百済復興のため白村江の戦いが起こったと説明しました。中大兄皇子が出兵を続行したのは百済の王子フヨホウショウのためだと。実はこのフヨホウショウ。中臣鎌足であるという説が根強いのです。中臣鎌足とは中大兄皇子をそそのかして乙巳の変を起こさせた人物。もしこれが本当ならば、フヨホウショウによって蘇我入鹿が殺されて大化の改新となり、白村江の戦い(朝鮮出兵)もフヨホウショウのためとなります。めちゃくちゃ日本を動かした人物となる。その後中臣鎌足は藤原鎌足となります。上記の年表に示しましたが中大兄皇子(天智天皇)は遣唐使を3回、遣新羅使を1回。天武天皇は遣唐使を0回、遣新羅使を4回派遣しており、天智天皇が唐(&百済)派、天武天皇は新羅派でした。中大兄皇子(天智天皇)の第4皇女元明天皇の時代に完成したのが古事記だが、新羅派の天武天皇が稗田阿礼に編纂を命じたとされる。ならばアメノヒボコの出身地を百済と書かずに(統一)新羅と書くのは妥当ではないでしょうか?そしてこの天武天皇。即位前の名が大海人皇子。この時代は養育に関わった一族の名を付けられるのが一般的。養育を担当したのは大海宿祢であり、阿曇アズミ族系。阿曇族は志賀海神社。九州の一族であり新羅派。志賀海神社の御祭神は【綿津見三神】である。【住吉三神】の妻。沖津宮には天之御中主神が祀られている。阿曇磯良アズミノイソラという人物が三韓征伐時にかじ取りを務めたとされます。中臣氏の祖先は天児屋アメノコヤネ命(上巻で述べたようにマリアや瀬織津姫と同一視され、後述するようにアメノヒボコもマリアの受胎が関わる)。もう一度古事記に戻ります。神功皇后が(統一)新羅を造り、その息子応神天皇(住吉三神)が神から名を貰い、鼻の折れたイルカを貰った。と書いてある。それはフヨホウショウ(中臣鎌足)が蘇我入鹿イルカを斬り、白村江の戦いで統一新羅を造り、新羅派の大海人皇子(天武天皇)がイザサワケオオカミから【住吉三神】として名を貰った。私達は正当な血筋である。そう示したかったのではないか?(実質的に古事記制作に携わったのは藤原鎌足の息子の藤原不比良フビラ。天武天皇から元明天皇以降まで仕えている。)

なお上記の年表で668年に高句麗コウクリが滅んでいる。この高句麗の人を王族として受け入れたのが高麗コマ神社。この時のリーダー若光ジャッコウに与えられたのが高麗王という姓。そしてここの奥宮が水天宮。水天宮といえば本来は天之御中主神。

 

北イスラエル王国

ヤラベアム王

伸ばした手が枯れてひっ込めることができなかった。とある。古事記では応神天皇の時代に余佐美能伊氣ヨサミノイケでジュンサイを手繰つて手の延びていたのを知らずにと、歌として表現している。

 

マリア →【一賤女】

キリスト →【赤玉】【阿加流比賣アカルヒメ神】

 

 ※応神天皇の時代に渡来したアメノヒボコは、妻の阿加流比賣アカルヒメ神を追ってきた訳だが、【阿加流比賣アカルヒメ神】と【豐玉毘賣トヨタマビメ命】は夫の行動が嫌になり立ち去る点と、阿加陀麻アカダマで共通している。アカルヒメの生まれ方は、ほぼマリアの受胎告知を示しており、一賤女が赤玉(アカルヒメ)を受胎した場所が新羅国の阿具奴摩(阿具沼アグヌマ)。マリアがキリストを産んだ当時の皇帝の名がアウグスト。トヨタマビメは歌の中にアカダマ・シラタマを詠んでいる。

 

 ※幕末に一霊四魂イチレイシコンという考え方が現れた。

荒御魂アラミタマ

和御魂ニギミタマ

幸御魂サキミタマ

奇御魂クシミタマ

この四つが並列であるという考え方である。古事記ではアカルヒメとトヨタマビメの段階で実は以下も魂として述べている。

阿加陀麻アカダマ

斯良多麻シラタマ

この六つは並列ではないし、とんでもない事実が隠されています。気になる方はYouTube見て下さい。

 

旧約聖書 エゼキエル書から引用します

 

主なる神はこう言われる、見よ

わたしはエフライムの手にあるヨセフと

その友であるイスラエルの部族の木を取り

これをユダの木に合わせて、一つの木となす。

これらはわたしの手で一つとなる。

 



ここで、わたしとは大物主(日本最古の神社 大神オオミワ神社の御祭神で、正体は白蛇)となります。

大物主がムスビの大神と呼ばれる理由と

大国主のニギミタマのクシミタマが大物主となること

大国主のニギミタマのサキミタマが天之御中主神であること。

そして大物主と天之御中主神が実は同じであること。

豊受大神とは天之御中主神の稲の部分に特化した神様であること。

誓約ウケイという儀式が生まれたのは、皇族(アマテラス)とダン族(スサノオ・宗像三女・大国主など)を結婚させずに家系図を作るためだということ。

 

イスラエル12部族の紋章と日本への伝来

 

シメオン族 ヤマトタケルのモデルユディト

草那藝之大刀

 

ルベン族 鹽椎神 鹽竈神社

 

ユダ族 狛犬(獅子) 南ユダ王国 ダビデ ソロモン キリスト

 

マナセ族 破魔矢

 

ゼブルン族  住吉大社 氣比神宮

 

ダン族  出雲大社 大神神社の大物主 宗像大社

 八咫烏 熊野大社

 

ナフタリ族 鹿 建御雷之男神 鹿島神宮 春日大社

 

イッサカル族 ロバ(馬) 神馬 絵馬

 

エフライム族 狛犬(一角獣) 北イスラエル王国

 

ベニヤミン族 ヤマトタケルのモデル エホデ

  三峯神社

 

アシェル族 

 

 ※古い神社の狛犬が獅子と一角獣なのは、南ユダ王国と北イスラエル王国の統一を示していると考えられる。

 ※熊野本宮大社の主祭神は素盞鳴尊スサノオ。スサノオの使いは八咫烏。

 ※最初の八咫烏は二本足である。八咫烏を三本足とする最古の文献は平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」

 ※ヤマトタケルの使いは狼

 ※出雲大社の使いはセグロウミヘビ

 ※鹿島神宮 春日大社の使いは鹿

 ※賀茂御祖神社の社伝によると、活玉依毘賣イクタマヨリビメの父親、賀茂建角身命カモタケツヌミは八咫烏ヤタガラスである。なので陶津耳命も八咫烏となり勢夜陀多良比賣セヤダタラヒメの父親、三嶋湟咋ミシマミゾクイも八咫烏となる。

 ※ダン族の紋章に馬がいるが、蛇がかかとを咬んでいることを示しているので、馬そのものを表している訳ではない。

 ※レビ族は12部族には数えないが、モーセ【猿田彦】や修験道の開祖 役行者エンノギョウジャ(役小角エンノオヅヌ)が該当する。レビ族と山伏が酷似しているのも有名。

 ※アシェル族の紋章は燈籠を連想させる。とても。だがアシェルの特徴としては王の食事。もしかしてだけど初期の燈籠って調理用だった?決定打が見出せない。だがこのようにして見ると、失われた10支族どころかほとんどの部族が渡来していると考えられる。

 

なお、12部族の特徴を決定づけたのは12人の父親であるヤコブの以下の祝福の言葉である。

 

「ルベンは沸き立つ水のよう。シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。ユダは、ししの子。つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく。ゼブルンは海べに住み、舟の泊まる港。イッサカルはたくましいろば。ダンはおのれの民をさばくであろう。ダンは道のかたわらのへび。ガドは敵のかかとに迫るであろう。アセルは王の美味をいだすであろう。ナフタリは美しい子じかを生むであろう。ヨセフは泉のほとりの実を結ぶ若木。しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い。ベニヤミンはかき裂くおおかみ。すべてこれらはイスラエルの十二の部族である。」

 

十種瑞宝トクサノズイホウ・十種神宝トクサノカンダカラ

 

ニギハヤヒが天より授かったとされる。十種の瑞宝と表記されるのは石切劔箭神社と石上神宮(古事記だと天津瑞)。神武天皇はこれを受け取って初代天皇に即位している。つまり十種神宝はイスラエルの民を証明するものである。

(石切劔箭神社の社史によれば神武天皇と天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊ニギハヤヒのお互いが神の子であることを証明するために見せあったとされるのが天羽々矢アメノハバヤと歩靫カチユキ。)

 

先ずこの十種神宝は旧約聖書のどこから始まっているかというと次の文章です。

 

アヒヤは着ている着物をつかんでそれを十二切れに裂き、ヤラベアムに言った。「あなたは十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる『見よ、わたしは国をソロモンの手から裂き離して、あなたに十部族を与えよう。

 

これが失われた10支族(ユダ族とベニヤミン族以外を指す)の証となります。おそらくこれが種神宝であり、最初は布切れだった。なお、古事記でヤマトタケルを皇族として描いているのは左ききのエホデがベニヤミン族だから。狼の三峯神社の奥宮が天之御中主神。

 

この十種神宝がどのような形でいつ日本に伝わったかというと、古事記では神武天皇とニギハヤヒの時ではなく(この時は天津瑞)、応神天皇の時代に渡来したアメノヒボコが持参していると記されている。古事記で明確に描かれているその持参品がこちら

 

八種 珠二貫。比禮四。奧津鏡。邊津鏡。

 

これらが伊豆志之八前大神イズシノハチマエオオカミとして一の宮の出石イズシ神社に祀られている。では比較として十種神宝の内容も記しておきます。

 

生玉。死返玉。足玉。道返玉。蛇比礼。蜂比礼。品物之比礼。沖津鏡。辺津鏡。八握剣。

 

似て非なる。と言ったところでしょうか。近いには近いです。さてあと2種はどこでしょう?剣欲しいですね。古事記をよく見ると応神天皇の時代に渡来したのは新羅のアメノヒボコだけではなく、百濟からも沢山の方々がいます。この人たちが持参していると書いているのです。上横刀及大鏡。と。つまり大刀と大鏡の2種です。合わせて十種。これに関しては下巻でさらに詳しく述べます。

 

十種神宝をいったん別の視点で検証します。

 

伊勢神宮の古記録である『太神宮本紀』を基にした『大同本紀』という古代の文献をもとに製作されたとされる『倭姫命世記ヤマトヒメノミコトセイキ』。古事記ではないがこの内容と旧約聖書の出エジプト記がかなり近いのです。先ずは大まかな比較を。

 

第10代崇神天皇の皇女 豊鉏入日売トヨスキイリヒメ命【モーセ】が天照大御神の遷座地を求めて御杖代として各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第4皇女 倭姫命ヤマトヒメノミコト【ヨシュア】がそれを引き継いでおよそ90年間【シナイ半島を40年間】かけていろんな神社に一時的に八咫鏡【石板】を奉斎した為 元伊勢と呼ばれる神社が幾つもある。

 

そして古事記の神武東征と旧約聖書の出エジプト記、モーセの東征も大まかに比較します。

 

モーセは兄アロンと共に東に進むが 兄が先に亡くなり約束の地カナンに入ろうとするも迂回

神武天皇は兄五瀬命と共に東に進むが 兄が先に亡くなり目的地に入ろうとするも迂回

モーセの全軍が病や毒蛇に苦しめられるが青銅の蛇の神威で回復

神武天皇は甕布都神(布都御魂フツノミタマ)の神威で回復

モーセは戒を授かる

神武天皇は種瑞宝を授かる

 

先ほど種神宝は布切れであり、失われた10支族の証だったと述べましたが、その布切れが応神天皇の時代にはもはや別の形で伝わっていたと考えるのはむしろ自然かと考えます(時がくだりすぎているので)。

 

では種神宝の内容を並べます

 

沖津鏡

他の神々が、あなたのためにわたしの面前にあってはならない。

辺津鏡

あなたは自分のために像を作ってはならない。

八握剣

あなたは、あなたのヤハウェの名を、空しいことのために唱えてはならない。

生玉

安息日を覚え、これを聖別しなさい。

死返玉

あなたは殺してはならない。

足玉

あなたはあなたの父と母を重んじなさい。

道返玉

あなたは姦淫してはならない。

蛇比礼

あなたは絶対に 盗んではならない。

蜂比礼

あなたはあなたの隣人に対し、偽の証言をしてはならない。

品物之比礼

あなたはあなたの隣人の家を欲しがってはならない。

 

 

下巻では日本に伝わったとされるイスラエル神宝(三種の神器)とその入れ物である契約の箱(アーク)の行方。ならびに予想される年表に関して述べていきます。中巻はここまでです。ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。