親の死は、順番だから受け入れざるを得ないというか、受け入れやすいような気がする。

昔は考えられなかったけど、今は昔よりは受け入れられるような気がする。


だけど、2人の友達のことを思い浮かべたらダメだった。悲しい。想像をし始めたら、悲しくてさっきから涙がぼたぼたと溢れる。

友達が死ぬなんて考えたことがなかったけど、

もう40歳だし、何がいつ起こるか分からないんだな、と思うと、当たり前だが無い話ではない。

そうか、あの2人が私より早く亡くなることがあるのか。

そう考えると喪失感が大きくて、失う物の大きさに打ちひしがれる思いだ。

2人の子供達に、わたしの連絡先を伝えておいてもらおうと思った。

家族葬が多いであろうから、呼んでもらえないかもしれない。けれど、呼ぶ選択肢を持っておいてもらいたい。

そして、わたしの娘にも2人の連絡先を伝えておこうと思った。


わたしはどんな風に送ってもらおうか。


実は、10年前に伸吾君が亡くなって、火葬をしたときに、

「これは、ゴミだ」.

と思ったのだ。

亡くなるとゴミになるのだ。本人ではなくなるのだ。そう思った。

骨と灰を見て、気持ちがすっかり切り替わったのだ。切り替え。そのためにあの火葬からの骨を拾う儀式があるのかもしれない。

納骨の日、新潟の寺でみぞれの中、骨壷から墓に骨を移す経験をした。

線香を供える石を動かすと、小さな滑り台様のものがあり、そこへ骨だけを入れる。

骨は入り口より大きいため、穴に入っていかない大きさのものは、尖った細い棒か何かで

「ザクザク」

と砕いて入れた。ここでも

「これは、ゴミだ」

と思った。

大切な人だったものに間違いはないけれど、廃棄物なんだと思った。

そこに彼はもういない。


この経験で死に関する意識の一部が変化した。

これは、それを見ていた父も、話を聞いた母も同様で、私たちの共通認識が「死んで燃えたら燃えかすはただのゴミ」だ。

尊ぶものでも大切なものでもなくなる。

墓には誰もいない。

墓はとても大切な場所だと思っているし、墓参りも好んで行くけれど、墓に大切な人はいないのだ。墓にあるのは骨と灰だ。


これはわたしの今の考えだ。

これから変わるかもしれない。

でも、そう思うからこそ、自分の葬儀や墓をどうするか迷ってしまう。

自分の葬式のことは自分で決めて葬儀屋とも契約しておきたい。

今まだ若いわたしだけれど、今からそう思っている。

そして、繰り返しになるが、友達が亡くなったときにはちゃんとお別れをしたいからそれを今度伝えようと思った。