PARCOで13時からの80分なら会社から仕事中抜けで行けるじゃないかと行ってきた。
また丁度良い具合に出社しなきゃ出来ない業務が今日になったのもラッキーでした。
ということで、『2020 ニーゼロニーゼロ』
配信を先に観てこれ好きな戯曲だわと期待して行ったけれど、いやー最高でした。

 
正直、配信を見ながら思ったのは、高橋一生 という役者は凄いと思うけど、私はトキメキはないなと言うこと、実際に劇場で生で観てもときめかないんだけど、観客とのconnect力が凄まじいというか、一気に引き込む力が映像ではわからないんだわ、呼吸を合わさせられる感じというかなんというか、いやはや脱帽。観客を一気に引き付けて自分の世界に連れ込んで、そこからあっさり放り投げてくれる感じが最高に心地いい。落語などと近い感覚。でも落語と違ってマクラをふらずにいきなりだもんなぁ。しかも客席への視線の投げ方が上手い!皆が自分と目があったって思っちゃうんじゃないかしら。(宝塚のトップスターの極意だね💕)
 
ところで、何故沈黙の期間が710年間だったのか、2020年から710年前の1310年は足利尊氏が生まれた頃で、鎌倉時代の終盤で南北朝時代に変わる頃だよねぇ🤔
脚本と演者が良すぎて、映像とは音楽?が邪魔だったなぁ。
音無駄に大きくてうるさいし😁
余計なものを排除してシンプルに箱とボールだけを使った演出で観たい。
(高橋一生の人気ではPARCO劇場の大きさが必要なのかもだけど、成河で芸術劇場のシアターウエスト辺りで観てみたいな)
開演前すべてのバトンが降りていて、それが上がっての導入は好き
 
突きつけられる個と全の問題提起、私たちは肉の海になって終わるのか…それとも…
 
最高製品のプレゼンに心がかき乱された、岡崎琢磨著の『Butterfly World』を思い出して、この最高製品を否定するのは簡単だけれど、本当にそれでだけいいのかと。
 
 
石原莞爾と大田正一、劇中に登場する実在の人物 石原莞爾は満州事変に絡んで知っていたが大田正一は知らなかった、特攻機の桜花の発案者なのか、死ねなかった大田は名前を変え1994年12月に京都で亡くなってる、歴史上の人物かと思いきや私と同時期に京都で存命だったのか。
大田が死ぬために東の海へ飛び立った時にまとわりついた特攻で命を散らした人々の魂たち。今度帰省した時に、鹿児島の知覧の特攻平和会館で彼らの言葉に写真に向き合ってこよう。
 
別の舞台の話になるけれど、
クラウディアのどこに嫌悪感を感じるのかについて友人と話をしていて、ふと思った。あの作品の女性蔑視にはうんざりなんだけれど、終盤の殺し合いを美化してるのも嫌なのだ。
いつからだろう、迫力ある殺陣を観るのは好きだ。今でも見ると心が躍る。けれど、主人公に切り殺される名もなき人々の「死」に耐えられなくなった。
人の「死」を「死者数」という「数字」で語られるのがダメなんだ。一人一人に人生があってその「死」は「死者1名」と数字でまとめられるものではないのだと・・・
 
そういう意味で、生き残った子供であるハリーが息子を持った今でもそのことに苦悩を抱えている「ハリー・ポッターと呪いの子」は信頼できる。
 
あ~~こうやって様々な読書経験、観劇経験にリンクして思考をぐるぐる回らせてくれる舞台に出逢えると本当に幸せだ。