スリルミー観て、エリザのガラコンのライブ配信観て、レミゼ観て、スリルミー配信観て、ロミジュリ観て、レミゼ観て、ロミジュリ観て、とやっていたら、頭の中に「愛」と「死」というキーワードがぐるぐるしちゃいまして(笑)
ということで、私の愛するあんみつの写真から
スリルミーは、究極の愛だった初演ペア(田代&新納)は当然ながら、マウント合戦して切り合っていた成福ペア(成河&福士)も若さで暴走してしまった若手ペア(松岡&山崎)ペアも、二人の間には何らかの愛があって、その愛ゆえに、少年を殺してしまう、少年の死
私と彼、求めあう愛だからなぁ・・・
愛と死の輪舞を歌うエリザベート、トートはそのまま死の帝王、勝ち取りたかったのはシシィの愛。けれど、愛されるのをひたすらひたすら待ち続けたトートって・・・ある意味健気よね(笑)
フランツもひたすらシシィを愛し続けて、トートとフランツに愛されたシシィは、自分が自分として生き抜いて、生き抜いた果ての死を愛した。
レミゼで描かれる様々な愛。エポニーヌのマリウスへの捧げる愛。バルジャンの慈愛、ファンテーヌのコゼットへの母としての愛。マリウスとコゼットの純愛。ジャベールのバルジャンへの執着もある種の愛か??「誰かを愛することは、神様もおそばにいることだ」。ファンテーヌもエポニーヌもバルジャンも愛しぬいて死を受け入れた。
レミゼの愛は、愛される愛ではなく、愛する愛なんだよね。だから最後に救いがある。
ロミジュリのロミオとジュリエットの純粋な愛は、ある意味劇薬だったのかもしれない。だから、彼らの愛は「死」をもって結ばれて、分断を乗り越えて融和をもたらす。
「愛」に触れて愛を知り愛に生きた時に、その生は輝きもするし、間違った道へ迷わせたりもする。けれど、人間行きつく先は「死」。今日一日を生きることは一日「死」に近づく。
とすれば、「死」は常に私たちの隣にある。「死」を意識して生きるのか、「愛」を感じて生きるのか、案外それだけの事なのかもしれないなぁ。
だからこそ、他人の命を奪い強制的に「死」をもたらす殺人は許されないよね。ほんと戦争なんてもってのほかだわ。
そうなのよ、だからスリルミーの私と彼のように踏み越えて禁断の森に迷い込んではダメなのよ。でも自分の中には「私」も「彼」もいるからさ、こうやって観劇等で、おいおい自分の中の「私」と「彼」を変な風に育てるなよと、無意識に警告してるのかもな。
そうそう、レミゼのマリウスもロミオも、恋を知ることで仲間たちとの間に何らかの亀裂が生じるけれど、コゼットもジュリエットも仲間がいないので、父親からの別離はあるにしても、そういうそういう喪失がないんだよなぁ。なんでだろうなんてお思ったり。
それにしても、力のある若手がどんどん出てきて嬉しいな。