数年前に友人に誘ってもらった劇団MONO、何気ない会話から浮かび上がる日常の優しさと可笑しさと、怖さと、何よりわちゃわちゃとと演劇で戯れるなかよしおじさんたちにハマりまして、今回も友人と一緒に吉祥寺へ。

外国の戦地に慰問に来ていたグループが突然消えた。
噂によればその鉄塔に男たちはいるという。
1998年に初演。戦争という過酷な状況の中、鉄塔の上で交わされる下らないやり取りを描き好評を博した。
それ以来、数々の団体によって上演され続けている劇団代表作をオリジナルメンバーで上演。
同じ場所で展開する時間軸の違う短編をプラスし新たな地平で物語は完結する――
 
<キャスト>
①吉村充:渡辺啓太
 吉村志緒:石丸奈菜美
 吉村円香:立川 茜 
 藤原柚月:高橋明日香
②吉村陽乃介:奥村泰彦
 小暮 要:尾方宣久
 笹倉万次郎:水沼 健
 上岡雄吉:土田英生
 城之内誠治:金替康博 
 
1998年初演のオリジナル部分を第二部としてその前に当時はいない若手劇団員による40年前の親たちの物語が第一部として+された舞台。笑って共感して突っ込んで辛くて怖くて、ありがたい。 打ちのめされて、演劇の持つ力に圧倒されて、今観られてよかった。
芸能が不要不急であるならば、何故戦地へ芸能の慰問団が赴かされるのか。それはやはり人間にとって必要不可欠だからではないだろうか。 今が未来に繋りそれはまた過去に繋がる、二部だてにしたことによる深みと痛みと、全てが現実世界にリンクしてくる。
一夜明けて、個と全、『ことぜん』という言葉が浮かんだ。昨年の新国立の三部作のテーマだ。 思考停止が蔓延しつつある今の日本、自分を見失わなかった人が自らの死を選ばざるを得ないこの日本。何かが忍び寄ってる感じがして怖い。
 
土田さんのセリフのリズムと言葉はさらさらとえぐってくる。あるあるが満ちていてつい声を立てて笑ってうんうんと共感して、いやそれは違うやろと突っ込んで、そしておじさんたちのかわいさ照れにメロメロになって、いやぁ金替さんピンクが似合う~~好きラブラブ
 
吉村家の嫁・小姑関係、いや~~夫の家族全員が我が家の合鍵持ってるとか地獄でしょ~志緒さんわかるわかる!私には絶対無理(笑)。最近ギクシャクしている兄夫婦を心配して旅行に誘う妹の押しつけがましい優しさもリアル。そうなのよ~~いい人だからこそ、耐えられないこともあるんですよ。愛されて育ってちょい甘ったれ夢子ちゃんの円香のうざさとほっとけないかわいさも、身近にいたら勘弁だけど(笑)。一人他人で現地で暮らす柚月が日本で常に感じていた疎外感、離島ならではのしんどさ。気にかけていなくてもふとした瞬間に無意識で出会うヘイト。
四人がくるくると構図を変えて対立しあう。ふと子供の頃に聞いた言葉を思いだす。「人が一番簡単にまとまるのは、共通の敵を見つけた時。だから、嫌われる担任先生のクラスはまとまりやすく、人気者の先生のクラスは先生に好かれようとして皆がライバルになってばらばらになりやすい」と。志緒調べではないけれど、「世界の会話の45%は悪口で40%は愚痴」、と同じ構図。愚痴や悪口は盛り上がりやすい、けれど、せっかく海外旅行に来たのに、その国と比べて日本はいいよねぇと盛り上がるのは、嫌だな。
どこかの国を仮想敵とすることで国内をまとめようとするってファシズムに繋がる。いやいや、そんな大きくまとめるのではなく、単純に個人と個人で向き合おうよ。そう、人間としては好きだけど、吉村家は苦手だというのも、個としてとらえれば問題ないのに、集団となった時に出てくる嫌悪感、恐怖がそのにはあるのだろうか。
50年前の民族紛争の銃撃の痕がそのまま残る壊れた鉄塔、隠れて反体制の人形劇が行われていたという小さなステージ、その場に立ち、志緒が日本でよかったと、義両親に預けてきた8歳の息子陽乃助が死ぬまで戦争に巻き込まれることはないだろうという、思わずぞわっとする。いやそれは甘い、油断しちゃいけないだろうと。
 
そしてオリジナルの第2部、登場人物の設定年齢はさすがに出演者の実年齢に合わせて上がったのね(笑)。たった4人なのになんとなくリーダー(代理)になってしまい、ルールを決めたい上岡、自由に好きなことをしていたい水沼、ちょっと抜けてる愛嬌ある吉村陽乃助、そうあれから40年後、戦争に巻き込まれることはないと母親が言っていた息子は、戦地への慰問団に加わり一斉攻撃から逃れるために駐屯地から逃げ出して、両親が訪れた鉄塔跡地に隠れている。脱走兵の城之内も加わってパントマイムを練習する5人が迎える衝撃のラスト。思考停止となった集団が暴走する地獄。
 
昨日ツイッターで流れてきたボンジョビおじさん。ロンドンの地下鉄でいつも大声でボンジョビし、ハイドパークでの大合唱へつながる動画。なんとなくゆるくつながった人々の持つパワーに感動すると同時に、一緒に歌いたくない人もいただろうなぁとふと思う。”一緒に歌いたい”と気持ち、”聞いているだけでいい”という気持ち、”うるさいなぁ”という気持ち。どれも嘘じゃないだろうしどれも正しいと思う。
いやね、高校の同窓会で最後に参加者で肩を組んで校歌を大合唱するのが定番で、すっごく嫌なんですよ。大っ嫌いなんですよショボーン。でもそれをとても尊い瞬間だと思ってる方々もいるわけで💦
 
今回のコロナ禍の中、なんとかこうやって上演されたことの意義。「新型コロナウイルス」を”敵”認定することで一致団結しての自粛と我慢を強いる同調圧力、たいしたことはできないけれど、それでも抗っていたい。肩を組んで校歌を歌うことへで感じる嫌悪感と恐怖感は大事にしたいなぁと。
 
観劇から2日経って、あの鉄塔が現役だった頃を想像してみる。そこには平和な穏やかな光景があったのだろうと。