実はこれまでなかなかタイミングが合わず、初めてのきらめく星座。

自粛による公演中止が相次ぎ、細心の対策を取って再開した公演も再中止に追い込まれている昨今。「自粛要請」とはきわめて都合がよい言葉だ、要請する側がその決定責任をすべて要請される側へ丸投げ。自粛してもしなくても被害を被るのは要請する側ではなく要請される側・・・。日本人は同調圧力が強すぎて「自粛要請」がいつもまにか相互監視になり、市民の「通報」でコンサートが中止になったりしてる・・・。それぞれが自ら考えて行動するのに、みんな我慢してるのにとか、どうなんでしょうね。
 
ということで、こうして対策取って上演してくださることには、感謝しかない。そこにあるのは「責任と取る覚悟」と「熟考した末の判断」があるだろうから。
 
昭和15年11月3日から始まる。幻の東京オリンピックの年。 劇中で節目として語られる昭和11年は226事件だ。そして年が明け昭和16年、1941年になる。宮沢賢治の星めぐりの歌であまちゃんを通じて311がリンクする。萎縮になっている自粛と相互監視がまさに今に重なる。
日めくりカレンダーがだんだんと12月8日に近づくのがしんどい。12月7日ビールを飲み青空を皆で歌ってる頃、真珠湾攻撃に加わった彼らは、人間魚雷に乗ってた彼らは何を思っていたのかと考えてしまう。 ひとつひとつの命はもうそれだけで奇蹟。だからこそ、 もう間違ってはならない。
ラスト長崎と満州に旅立つ人々のその後を想像すると胸が張り裂けそうになり、星めぐりの歌から泣き続けて、最後は嗚咽をこらえるのが精一杯だった。
 
何の役にも立たないという自分でいう広告文案家の竹田の言葉がオデオン座の人々を癒す。森元のピアノの寄り添ってくれるあたたかさ。「言葉」「音楽」等の文化芸術が持つ人々を心に寄り添い癒す力は計り知れない。息苦しい時代であっても人々は歌って踊り笑ってお互いを思いやってたくましく生きている。
 
けれど、すき焼きを食べる時に近所の目を気にして雨戸まで立てなきゃいけない戦前の日本と、休校中の子供たちが公演で遊んでいたと高齢者からの苦情がくる現代と一体何が違うのだろうか。
そして文化やスポーツが不要不急として軒並み自粛対象となっている今、本当に不要不急なのだろうか。そうやって心を豊かにするものを切り捨てて戦争に突き進んだ結果、たった1つの卵さえ長蛇の列に並ばなければ手に入らない時代になったことを、私たちは忘れてはならない。若者が未来へ進むのではなく死を覚悟して戦地に赴かなければならない事態だけは何があろうと繰り返してはならないと強く思う。