ソウル旅行もあって、プレビュー初日、本初日の後、千秋楽前に2回続けてみることになったタージマハルの衛兵。
7日以来2週間ぶりにみる舞台は、また違う世界がそこにあって、舞台は生き物だということを再認識させられた。
フマーユーンとバーバルの間にある壁、断絶がより色濃く見えてそれを超えてお互いを求めある二人が、壁を乗り越えられずに迎える結末。
私の中にもフマーユーンとバーバルがいて、一つになれずに葛藤していて、そこにはやはり断絶があって、こうして観劇から何日たっても自分の中のフマーユーンとバーバルがずっと泣いている。
二村周作さんが作成された舞台装置の模型。改めてシンプルで美しい舞台。装置、照明、音響、演出、出演者、すべてが揃った素晴らしい出会い。


何気ない目線、ちょっとした表情で亀田バーバルと成河フマがすれ違いを積み重ねていく。澱となったすれ違いが決定的な別れを引き起こす。権力とはいったい何なのか、上の人間って何?俺たちのこと誰も見ていないというバーバルの言葉は真実であり、真実ではない。お互いが見てるから、自分が見てるから。「個と全」。彼らに2万人の手を切らせたのは、「全」だが、それは「個」の集まりで、当然「個」には彼らも含まれるから…。
ラストシーンのフマーユーンの空虚な10年間をよりくたびれたフマで見せる成河。バーバルがいなくなっても皇帝が変わってもバーバルの後任が補充されることもなく、一人で衛兵を続けているフマ。そのやる気のない態度から彼が過ごした空虚な10年は20年にも30年にも感じられる。あの時を思い出すフマ、それは美しい思い出だが、二度と戻らない。自分が本当に大切なものをそれはおそらく自分自身ですらあったものを永遠に失った事実に打ちのめされることにすら、慣れてしまったフマは明日もまた空虚なまま生きるのか。
「考えること」を拒否したフマが手にした空虚な現実。
我々も思考停止を永遠に受け入れたとき、待ち受けているのは空虚な未来しかないのかもしれない。だから、演劇を見たい。芸術に触れたい。考え続けたい。