昼夜通し狂言の新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』
ナウシカ:尾上菊之助
クシャナ:中村七之助
ユパ:尾上松也
原作の漫画7巻が7幕の昼夜通し狂言となった。
「そう言えば、マンガは見得もあるし、歌舞伎にしやすいらしい」。これは今年の夏に制作側の方から伺ったこと。ある意味何でもありの歌舞伎の懐の深さは、荒唐無稽のマンガに通ずるものがあるのだろう。子供の読み物として認識されていた「マンガ」だが、手塚治虫は言うに及ばず、その幅広さの中で、マンガでしか描きえなかった哲学や概念なども数多く生まれている。ナウシカも特に最終巻に描かれているもののは一読では理解しづらさを持っている。歌舞伎は余白が多い芸能だ。見取り上演などはその最たるもの。だからこそ、ナウシカの世界をその本質を描くのに向いているのかもしれない。原作通りではないところも多々あるけれど、確かにこれはナウシカなのだ。
そうだよね。仮名手本忠臣蔵なんで江戸時代元禄の世の出来事を鎌倉時代として上演しちゃってるけれど、あれは確かに忠臣蔵の世界。物語の省略も矛盾も丸っと呑み込んでしまって、本質を見せつけるの向いてるのだろうなぁ。
まず筋書を買ってページをめくる、脚本の戸部和久氏のあいさつを読む。大正生まれの故戸部銀作氏の「戦争はしてはいけないが、がらがらぽんは悪い事ではない」という言葉、数年前のあの日の記憶、そして「歌舞伎の力を信じている。」との和久氏の結びの言葉に、この作品への思いが胸に迫って、すでに泣きそうになる。
ということで、ナウシカ。昼夜公演を一日で観るのは、新歌舞伎座の杮落し公演以来かな。久しぶりの長丁場。でもこれは一気に観て正解だったかも。昼と夜の間が2時間弱あるので、ゆっくりご飯もできたし。
序幕、口上の右近が旧世界のことをはじめこの幕を効果的に使って物語世界のことを説明してくれる。確かに王蟲(オーム)、腐海(フカイ)とか、耳だけで聴いてもわからないものね。漢字で見ることで一気に理解ができる導入。

ちなみに、知らずに見てると菊之助さん負傷されているとはだれも気付かないのではというレベル。メーヴェがあって宙乗りセットがあるのに宙乗りしないのでおや?と思うかもしれないけれど。ただ、五幕目の所作事は完全版を見たいので、再演を切に願います。
それにしても配役が素晴らしい。ナウシカは知らず知らずと皆がその愛に皆が巻き込まれていくけれど、どこかで孤独を抱えた少女。菊之助のどこか奥ゆかしい佇まいがぴったりはまった。物語が進んでいくにつれ増していく強さと透明感。座頭としての求心力がナウシカの存在に重なってくる。菊之助の新作歌舞伎はNINAGAWA十二夜もマハーラーバタの素晴らしかったので信じてはいたけれど、期待を軽く超えて行ったわ。
クシャナに七之助が出るのがもうもう感謝感謝。クシャナの決定版ですよね。あの神々しさ凛々しさ、美しさ、文句なしの王っぷり。クシャナもまたナウシカと同様にお互いを成長させていく。
ユパがまさかの松也。私にとっての松也はいつまでも15歳の可愛らしい大石力弥なので、ルキーニの時もびっくりしたけれど、今回も今更ながらユパが松也、松也がユパ、ってどきどきでしたが、登場したときにユパ様で、はぁ、私も年を取るはずだわ(笑)
アスベルの右近と二人飛び六法とか、ちょっと贅沢過ぎて♡♡
ケチャに米吉とかもうもう





酸の海での幼い王蟲の精が登場してナウシカと舞うのは歌舞伎ならではの名場面。これがラストの墓の主の精とオーマの精の場面へつながっていく。
巳之助のミナルバ・ナムリスの大敵ぶりの見事さ。道化の種之介の洒脱さ、出てくるだけで笑っちゃうけれど、彼にはすべて見透かしている怖さと、それでも人を愛する優しさがある。
墓の主の精とオーマの精の場面は、すべてが素晴らしすぎて、これだけでも十分作品として成り立つのではないかしら。歌舞伎の底力を見せつけられた。ワンピースの時の本水の立ち回りを隼人と巳之助に任せた猿之助も、ここを歌昇と右近に任せた菊之助の器の大きさに改めて脱帽です。
そして、ナウシカもクシャナも誰もが自分の道を見つけて歩んでいく姿が神々しくて、あったかくて、優しくて。
憎しみも怨みも消えないが今は復讐しないとのケチャの言葉に昨日の #ことぜん トークの瀬戸山美咲さんのクレア像を思い、王蟲の我々は個で全であるという言葉、はことぜんそのまま、そうして今が繋がっていく。