新しいこと始めるとき、形から入る?とりあえず始めてみる?ブログネタ:新しいこと始めるとき、形から入る?とりあえず始めてみる? 参加中

私は形から入る

もめんとは形から入るタイプです。

きちんとまず道具立てをしないと気が済みません。

新しいケータイに買い替えたら、まずはじっくり取説を読むことから始めます。

新しいパズル玩具やゲームを買った時も、まず遊び方をじっくり納得させ把握しないと先に進めません。

こんなだから慎重な性格かというとそうではない。

単に説明書が大好きなのかも。

またあることを始める為に環境や道具を揃える過程自体に喜びを感じているのかも。


とりあえずやってみることとか、
思うより先に口に出すとか、
そういう本能的・衝動的な振る舞いは性格上できないタイプだ。


「考えるより行動する」タイプの人に、憧れとジェラシーは長年持っていた。

しかし今は、自分の性質を否定する気は失せた。
じっくり考えている(時にウジウジも含め)のが、なにより好き。


なんとなく表題から外れている気もするでござるが、
うふふ。




オットのおじが亡くなりました。

ガンとたたかい向き合って、天国に旅立ちました。

おじのガンが見つかり手術をした頃、見舞いに行きました。
ステージ4でした。
これから過酷なたたかいが始まるのだろうと思いました。

それから数ヶ月後、もめんと自身もガンを患っていたことを知ることになりました。

一緒にたたかっていく仲間のようなものでした。
息を引き取る前日、オットと共におじに会いにいきました。

意識はすでに朦朧としていたけれど呼びかけにかすかに反応してくれてるようでした。


もめんとはおばに言われました。
「もめちゃん、体大事にしてね。おじさんの分まで。あなたに託すから!」
と。


もめんとは、今生きていることに感謝をし、歩いていこう。

オットを子供の頃から可愛がってくれたおじ。

娘達のことも、たまにしか会わないにしてもいつも明るく優しく接してくれました。


誰しもが、いつかこの世での生を終え、旅立つ場所があります。

そこでまた会う日まで。
命をつないでいこう。


しばしお別れです。

どうぞ安らかに。


長くもめんとが考えてきた問題として、「キリスト教と日本人の関係」というものがある。

日本人でキリスト教徒になるとは、日本文化を排除することなのだろうか?
という疑問が常にあった。

キリスト教徒になった途端に、仏壇や神棚を廃棄する、寺や神社を忌み嫌うかのように寄りつかなくなる。
冠婚葬祭の場で、あれはできない、これはしたくないと頑迷に主張し始める。

こういうクリスチャンをもめんとは、純粋で本物のクリスチャンだとは、一度も思ったことはない。

むしろ礼儀知らずで、わからずやで、イエスの教えを根本的にはわかってない人、
と認識している。


キリスト教が西洋の宗教だと短絡的にとらえるのは誤りである。

外国の宗教だから日本人のメンタリティに馴染むはずがない、
と触れる前から扉を閉めてしまうのも早計である。

神の教えと愛は、イスラエル民族のみならず、あまねく地の果ての人々にまで、

と語ったイエスの言葉を忘れてはならない。

またキリスト教徒はすべてのものから自由であり、であればこそ喜んですべてのものの僕になれるということを忘れてはならない。

その人その人の立場に沿い、目線に立って福音を伝えることは可能だし、クリスチャンはそうしなければいけない。


常に馬鹿の一つ覚えみたいに、同じ口調、同じ台詞、同じ言葉だけで、ぐいぐい迫っていったら、うんざりされるのは当たり前である。

これは何回かこぼしている話だが、あるクリスチャンとネット上で言い合いになった。

「ノンクリスチャンは地獄行きです。」という人がいたから、
「人間の分際で人を裁くな。」
と言ったら、
「聖書に書いてあります。」の一点張りで、会話が成立しなかった。

自分もクリスチャンだけども、この「聖書に書いてあります。」というセリフをロボットのように繰り返す人をみると、

腹が立つし、そのうちお気の毒な、うら淋しいキモチになってくる。

こういう人にクリスチャンと名乗って欲しくない。
一般的な日本人の方々に余計キリスト教そのものが誤解されるようでイヤだから。

キリスト教の極意・神髄とはイエスのエッセンスを愛することなんだ。

そしてそれは本来、日本人が日本人としての文化に誇りを持ち、慈しみながら、なし得ることが可能で矛盾しないものなんだ。

もめんとは日本のお祭りも大好きだし、ご先祖のお墓参りもする。

そしてイエスを愛する。
それは可能なんだよ。