「戦後」という言葉の意味 | 衝動記

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自分の心の中の衝動を文字や文章にして表してみました。










表現者 2016年 07 月号 [雑誌]


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少し前、長崎に原爆が落とされた8月9日にこんなニュースが流れてきました。

●〈速報〉吉永小百合「戦後が続いてほしい」平和への思い語る
http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/Cfettp01608070037.html

この記事の中で吉永小百合さんはこんなことを言ったそうです。

吉永はトークイベントの最後に、戦後71年目の夏を迎え、戦後という言葉が薄れている現状を憂え、原爆投下と終戦と同じ1945年(昭20)に生まれた人間として、戦争の悲惨さを語り継いでいくと誓った。

 「自分の年って、言いたくないですよね。だけど、45年に生まれたということで、私の年が『戦後何年』という年になっているというのは、とっても大切なことだと思っているんですね。ですから、私が幾つまで元気でいられるか分かりませんけれど、80になった時には戦後80年、90になったら戦後90年、100になったら…分かんないんですけれど、戦後100年と戦後(という言葉)が続いてほしい。そのためには、私たちが、やっぱり『戦争は、嫌だ!!』ということを、しっかり言わないといけない。思っている方たちは声に出して…と願っています」

この『80になった時には戦後80年、90になったら戦後90年、100になったら…分かんないんですけれど、戦後100年と戦後(という言葉)が続いてほしい。』という戦後という言葉のカッコの部分は編集部で付けたのでしょう。

そこで考えたいのが「戦後」という言葉の意味です。
この後に続く吉永小百合さんの言葉を見ると「戦後=平和」という意味で使ったのでしょう。

つまり、平和な時代が続いてほしいという象徴の意味で戦後という言葉を使った、しかし僕は違和感を感じる。

戦後という言葉を実際に起きた歴史から見れば「負けたままの平和」「負けた相手に従属したままの平和」という意味にも取れる。

それでいいのか?
こういう疑問が湧くんです。
それでもいい人はいいというでしょう。しかい、国家という歴史を紡いできた国民としては「負けたままでいいのか?」ということなのです。

僕は別に吉永小百合さんは共産党の広告塔になったなどという本人読んでもらえぬラブレターとやらを保守系言論誌に書いたどこかの自称文藝評論家みたいなことをいうつもりありません。

●吉永小百合さんへの手紙『月刊正論』 2016年3月号(小川榮太郎)
http://ironna.jp/article/3567

 「平和」を大切にする事と、知りもしない法案に大声で反対する事を混同しながら政治利用されてゆく、貴女を始めとする映画人や芸能人達は、正に「無知蒙昧」そのものではないでせうか。

 貴女自身は、広告塔のつもりはないと仰るかもしれません。

 が、残念ながら、貴女がどう思はうと、貴女の名前は、今や広告塔の筆頭格の一人になつてしまつてゐます。

 誰の広告塔か?

 驚くべき事に、日本共産党の広告塔です

 別表のやうに、昨年一年間だけで、吉永さんは「しんぶん赤旗」(日曜版のぞく)に見出し、記事として、十回も登場してゐる(アット・ニフティのデータベースによる)。これは、もうすつかり日本共産党お馴染みの「顔」になつてゐると言ふべき数字でせう。

 歴史上、藝術家や文化人の政治利用に一番熱心だつたのは、共産党に代表される全体主義国家であり、中でも最も藝術家を政治利用したのは、ナチスとソ連共産党でした。そして日本共産党は言うまでもなく、現在でもマルクス・レーニン主義を奉じ、共産主義社会を目指す政党です。

 共産主義が世界史上最大の政治犯罪だつた事は疑ひの余地がありません。共産主義国家は全て、プロレタリア独裁のまま軍事政権化し、自国民を恣に弾圧、虐殺し続けました。自由な共産主義国家は、一つも存在できなかつた。その共産主義を奉じてゐる日本共産党の広告塔に吉永さん、貴女がなるといふのは一体どういふ事でせうか。



そこで自称文藝評論家の戯言についてどうこう言いたいわけではなく、「平和」とは何か?ということなのです。

平和の語源は英語のPeaceになります。
Peaceの語源はギリシャ語の「パクス」、かつでローマ帝国が栄えていた頃に「パクス・ロマーナ」という言葉がありましたが、これは「ローマ帝国が他の地域を力で制圧をしていた状態」という意味合いもあります。

つまり、パクスとは「力のあるものが力の弱いものを制圧している状態」といえるのです。
今の日本は「アメリカという強者に制圧された弱者の日本」という状態である言えますし、それは今でも続いているといえるでしょう。

ここで自称文藝評論家の出した共産党の事が出てきますが、共産党は小池晃参議院議員が表現者67号で

「対米従属、日米安保体制、これこそ打破すべき戦後レジーム」と述べています。

これは共産党の公式見解ではなく、小池晃参議院議員個人の見解かもしれませんが、そこを無視して「戦後」という言葉を定義できないと思うんです。

戦後という言葉を使うときにに平和という意味と同義で使うのならば今の日本はパクスロマーナと同じ状態であるという事も頭の片隅に入れて語らないといけない。

一言で言ってしまうと「アメリカに制圧されたまま」でいいのか?それともネイションという意味での国民として長い時間かかってもいいから、その状態から脱しないと歴史を紡ぐことができないと考えるのか?

こういう事なんです。
今でも十分アメリカ化していますが、これ以上アメリカ化して日本のネイションたる常識とか良識、規範というのは生きていられるのか?

こういうところから考えるきっかけにならないといつまで経っても「戦後」という言葉は「平和」と同義で続いていくでしょう。



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