Y君(私の息子)へ

私(母)が晩年の父(貴方の祖父)から聞いた話を残しておこう。たぶん話す機会がないだろうから。

 

77年前父は広島の学生で下宿していた。

あの日の朝、宿の二階の自室の窓の手すりに座って外を眺めていたら、

友人が道の向こうから歩いて来るのを見た。迎えようと階段を降り、玄関に着いた瞬間 

強烈な光 続く爆風で家の奥に吹き飛ばされた。気が付いた時には家は崩れ

父は昔の家の高い上がり框と倒れた柱で出来た隙間に居て家の残骸に押し潰されないで済んだ。

それでも頭や足に刺さった木片などで傷ついていても大学に行って自分の生存を知らせたり、友人の消息を尋ねたりしていたが、最終的に近くの小学校の教室で治療を受けた。そこでは何百人と傷ついた人々が横たえられていたが、次次亡くなって、毎日校庭で死体を焼く臭いが堪らなかった。一週間後位に父の姉と義兄が重いスイカを二つ持って遠く離れた実家から救い出そうと訪ねてきた。何とか回復する2週間後だったか3週間後だったか、自分が生きてそこを出た最後の人間だった、と言っていた。

あの日下宿を訪ねてきた友人や早朝に故郷に避難するといって自分は実家に戻ったら食べるものはあるからと言って、弁当にするはずのお握りを父に残していってくれた友人もたぶんその時間には路面電車に乗っているはずの頃だったから、そこで亡くなったのだろうと推測するしかなく、

全てが焼けてしまって、探しようもなかった。

戦後は被爆者認定などの為に自分の記憶を辿り証言をしたりして活動していた。

人間は想像力があるから人間なんだという。

多くの映像資料も公開されているが実際目にすると見たくないものも多い。

あまりにも残酷だと思う。だけど、その地獄を実際に見た父は戦後は限りなく人に優しかった。

全ての怒りをあの時点に置いてきたんだろうと思う。