モーツアルトのコンサートも、カブリツキからいろいろ聴いた。文献もずいぶん読んだ。講演も聴いた。効果は抜群。モーツアルトの理解が進んだら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ショパン、リストが違ってきた。特に面白くなったのがベートーヴェン。
モーツアルトは1756年(宝暦6年)の生まれ。8代将軍<吉宗>が死んで5年目。一方、ベートーヴェンは1770年(明和7年)、10代将軍・家治の時代の生まれ。2年後に田沼意次が老中となり賄賂が横行する。時計を現代に移すと14歳若いベートーヴェンの<生誕250年>は平成32年。火山はたぶん生きていない。でもモーツアルトとベートーヴェンの<意外>な関係は書いておきたい。
二人は<直接>会ったことがあるのだろうか。さっきの二つの「モーツアルト」論では「残念ながら確実な証拠は残っていない」とある。でも有名な指揮者<近衛秀麿>の「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・昭和45年初版)に面白い記事がある。近衛秀麿は日中事変から太平洋戦争へ日本が暴走した時期に総理になった近衛文麿の異母弟。戦争中はドイツで音楽活動をしていた。
「暇さえあればウィーンに足を運んで、ウィーン生まれの音楽家ヒューブナー兄弟たちを案内に立てて、主としてベートーヴェンやシューベルトの旧跡を行脚した。親しくベートーヴェンの巨像に近づくためには、ウィーンその他の民間に伝わった秘話、逸話などを、注意深く、良心的に取捨して、この大天才の生活記録を再現する」(同書・1頁、4頁)。これが近衛の執筆態度。「伝記や文献の研究には新しい発見の余地はない」と覚悟していた。平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)にも見逃せない記事がある。
「ベートーヴェンがモーツアルトのレッスンを受けたことは、おそらくなかったであろうが、第一回ウィーン旅行の1787年4月中旬頃に、少なくとも一度は会っていた」(33頁)。なぜか。幼い頃からベートーヴェンは音楽家だった父ヨーハンからモーツアルトの神童ぶりを聞かされ、負けないピアニスト、作曲家になるよう期待されていた。ベートーヴェン家の<話題の中心>はモーツアルトだった。17歳で初めて<音楽の都>ウィーンに旅行、そこに住む<憧れ>のモーツアルトを訪問しないはずがない。<千載一遇>のチャンスだ。
「代々続いた音楽一家から出た作曲家が皆そうであるように、ベートーヴェンも最初の教育は父から受けている。父が息子に授けたのはクラヴィコード(チェンバロと並ぶもう一方のピアノ前身)奏法であった。またたくまに豊かな楽才を示し始めた息子に(父)ヨーハンは当時話題になっていたザルツブルグの神童を夢見ていたに相違ない」(平野・14頁)。<当時>とは1770年代。1770年4月、モーツアルトは14歳、父とイタリアにいた。ローマの聖ペテロ大聖堂で17世紀の作曲家アレグリの秘曲「ミゼーレ」を一度聴いただけで写譜、周囲を驚嘆させた大事件があった。ベートーヴェンはその年の12月に生まれる。
モーツアルトはイタリアで対位法やオペラを学び、<神童>から<青年>へ大成していく。一方のベートーヴェンは1778年3月26日、ケルンでデビューする。父ヨーハンは「当年6歳の息子を世に送り出す」と予告。これは「7歳と3ヶ月になっていた息子の年齢を1歳若くすることにより、世間に天才少年として印象付ける策略であった」(平野・15頁)。
<der wird einmal in der Welt von sich reden machen!>――。近衛秀麿「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・164頁)にあるモーツアルトがベートーヴェンを評した言葉。「この才能に注意を払いたまえ。この若者は今に全世界の話題をさらってしまうだろう」。これはドイツ語だが、前半が脱落している。<der>は男性名詞の関係代名詞。<若者>の<Wursche>が男性名詞なのだ。<von sich reden machen!>は<評判になる>という熟語。<einmal>は<いつの日か><in der Welt>は<世界中で>――。
近衛によるベートーヴェン17歳(1787年4月)、二人の会見の模様は次回のお楽しみだが、ベートーヴェンがモーツアルトを尊敬していたことは確実。「幾度となくベートーヴェンが、モーツアルトの芸術について、異常な感激をもって人に語ったことが伝えられている。『モーツアルトは自分にとって、あらゆる時代を通じて最大の作曲家である』」(近衛・168頁)。ベートーヴェンがウィーンを2度目に訪れたのは5年後の1792年11月2日。21歳。モーツアルトは35歳で既に1年前に世を去っていた。
ハイドンや対位法の大家アルブレヒツベルガーなどに作曲法を学んだベートーヴェンは1795年3月、今度は最高のピアニストの評価を得ようと、公開の場へデビューする。3日目の3月31日はモーツアルト未亡人がブルグ劇場で主催した亡夫のオペラ<皇帝ティートの慈悲>上演の日。なんとベートーヴェンは<幕間>にモーツアルトの「ピアノ協奏曲」を独奏したのだ。「この時の曲は、後にベートーヴェン自らカデンツァまで書き残すほど気に入っていたニ短調協奏曲(K466)であったと思われる」(平野・42頁)。凄い!!
このニ短調協奏曲こそ、火山が今年突然モーツアルトが好きになった<因縁>の名曲です。
(平成18年12月14日)