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天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あずま)なる 陸奥(みちのく)山に 黄金(くがね)花咲く(大伴家持・巻18-4097)

聖武天皇が廬遮那大仏の造立を発願したのは天平15年(743年)、43歳の時。これは途方もない夢だった。大きさもさることながら全身を金色燦然と輝くように塗りこめる。金が不足して当然。東大寺の着工は745年、大仏の鋳造開始は747年。天平21年(749年)2月、聖武天皇を狂喜させる報告が東国の陸奥から届いた。国守の百済王敬福からだった。この時の採鉱法は韓国式。渡来系の国守の斬新な技術が黄金のありかを探り当てた。

場所は宮城県涌谷町。今は黄金迫(こがねばさま)と呼ばれるところ。採掘された場所には黄金山神社と呼ばれる社が残っているという。発見直後から聖地として式内社に列せられたが、「史跡天平産金遺跡」という標識や万葉歌碑をもし見落とせば、何の変哲もない田舎の神社らしい。

しかし、大伴家持の歌が有名であるがゆえ、遠方から「万葉」のゆかりを慕って訪れる学者が跡を絶たない。境内には藤の花があり、満開の時期は紫の花が実に見事という。黄金が発見されたのを喜んだ聖武天皇は大伴氏に先祖代々の功績を称え、詔書を出した。そのことを喜び、天皇を讃美したのがこの歌。

当時、大伴氏は退勢にあり、聖武天皇が頼りに綱だったと中西進「万葉を旅する」(ウエッジ選書)。家持は出金を聖武朝廷繁栄のシンボルとして祝賀した。この一首は長大な長歌に添えられている。大仏完成のメドがつき、狂喜している天皇を見て家持もこのうえなく喜んだ。一族の復興をも果たした喜びの一首とも言う。

聖武天皇は火山が「聖徳太子は実在しない」で繰り返し話題にした不比等の孫。草壁皇子の遺児・文武天皇と不比等の娘・宮子の間に生まれた。幼名は首(おびと)だ。不比等は草壁を天皇に祭り上げたかったが、果たせず、その遺児<軽>皇子に賭けた。だが7歳だった幼児を即位させられない。草壁の母・讃良皇女を擁立する。持統女帝。ようやく成人した軽を文武天皇に祭り上げたが、この時、政治取引で天武天皇の長男で有力な候補者だった高市皇子を太政大臣にした。

肝心の文武天皇はすぐ亡くなり、またもや7歳の幼児が遺った。それが後に聖武天皇となる<首>皇子。だが即位は容易ではなかった。太政大臣・高市皇子の長男・長屋王が実力者として君臨していたからだ。不比等は政治取引で<首>を皇太子にはきたが、長屋王が自分の正妻の姉・氷高内親王を元正女帝に擁立したため、悲願を果たせぬまま世を去る。

不比等の長男・武智麻呂はやり手だった。異母妹の光明子を元正女帝亡き後、ようやく即位した<首>の後宮に送り込み、政権を得る。勢いに乗って光明子と共謀、長屋王を抹殺する。<長屋王の変>だ。この強引な手法は宮廷世界を震撼させた。武智麻呂政権の悲劇は聖武朝になった途端、天変地異と凶作が相次ぎ、疫病が全国に流行、人々が「長屋王<亡霊>の祟り」と考えたことだ。

恐るべきことに天平9年(737年)には藤原房前に始まり、麻呂、武智麻呂、宇合の藤原<4兄弟>が全員、疫病で死没する。残された光明子と聖武天皇には空前の危機が訪れる。二人は<仏教>の興隆で<長屋王の亡霊>を鎮め、人心を安定させようとした。それが全国に造仏、写経を勧め、国分寺を造らせる。東大寺建立、大仏造立はその総仕上げだった。これが聖武天皇の後半生の夢だ。だが聖武天皇は752年(天平勝宝4年)東大寺大仏開眼供養を見ることなく、749年に49歳で世を去る。光明子は孤独によく耐え、760年まで政権を支え、藤原一族繁栄の基礎を固めた。

大伴家持の歌。ただ一首だが、歴史の重みを考えると万葉の世界は実に奥が深い。
(平成18年1月15日)