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25歳のベートーヴェンは「ウィーンで最高のピアニストとしての地位を得るべく公開の場へデビューする。1795年3月29日と30日の2日間に行われたウィーン音楽家協会主催の未亡人慈善音楽会において、ブルグ劇場の大ステージに登場したのである。初日はピアノ協奏曲第2番(作品19)の独奏者として、翌30日にはピアノ即興演奏を行う。モーツアルト未亡人が主催した亡夫のオペラ<皇帝ティトゥスの慈悲>(K621)上演の幕間にモーツアルトのピアノ協奏曲を独奏」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・39頁)。

ベートーヴェンが幕間に弾いたピアノ協奏曲はカデンツァ(ソリスト用の華麗な独奏パート)を自分用に書き残すほど気に入っていた<第20番・ニ短調・K466)だった。即興演奏を披露したのが1795年3月30日。これから142年経った同じ日に<火山>が誕生。その火山はこの<20番ニ短調>を2006年2月12日に東京文化会館で聴き、50年以上もほとんど見向きもしなかったモーツアルトを突然、好きになる。人生は不可思議だ。

さらにもう一つの不思議。1785年のこの日(時差で現地2月11日)にモーツアルト自身が<20番ニ短調>を独奏、初演したのだ。時に29歳。ウィーンで絶頂期を迎えていた。華々しい活躍ぶりを父レオポルトに見せようと、故郷のザルツブルグから父を招待した。モーツアルトの家は現在「フィガロハウス」と呼ばれる豪邸。家賃450フロリン(450万円)というから豪華。オポルトがモーツアルトの姉ナンネルに宛てた手紙が残っている。

「おまえの弟は家具類もすべて整った綺麗な家に住んでいる。こちらに到着した晩、私たちはあの子の予約演奏会の初日を聴きに入ったが、そこには身分の高い人々がたくさん集まっていた。演奏会は(ザルツブルグとは)較べようもない素晴らしさでオーケストラも見事だった。それからヴォルフガングの見事な新作のピアノ協奏曲が披露された」―――<新作の>とは<20番ニ短調>のこと。1785年2月11日だ。

そしてもう一つ。父レオポルトは誇らしげにナンネルに書いている。「翌日の晩にはヨーゼフ・ハイドン氏と2人のティンティン男爵が訪ねてこられて、ヴォルフガングが作曲した3曲の新しい弦楽四重奏を演奏した」(平野・110頁)。ハイドンとの親しい交際を伝える父の目撃談だが、新しい弦楽四重奏曲とはハイドンに献呈された<K465>のこと。

「いずれも充実し切った素晴らしい曲ばかりである。24歳年少のモーツアルトと共にこれらの曲を演奏しながら、ハイドンはどれほど深い感銘を受けたことだろうか」(平野・111頁)。そして有名なハイドンの言葉――「私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。ご子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです」はこの晩、レオポルトが聞いたものだ。

父レオポルトは65歳。2ヶ月余りのウィーン滞在だったが、大満足でザルツブルグに帰る。父は2年後に世を去る。永遠の別れだった。モーツアルトも6年後、35歳の若さで死ぬ。ベートーヴェンは1795年3月31日、モーツアルト未亡人が主催した音楽会でモーツアルトの<20番ニ短調>を演奏した。自作の「ピアノ協奏曲」第2番に始まる3月29日から3日間の連続演奏がベートーヴェン25歳のウィーン楽壇への華々しいデビュー――。ハイドンがモーツアルトを絶賛して10年、モーツアルトが世を去って4年が過ぎていた。

「名演奏家のひしめく当時のウィーンにあってベートーヴェンが注目を浴びたのは独自の二つの武器、一つはボン時代のオルガン奏者として身につけた即興術であり、もう一つはネーフェ(ボン国民劇場の音楽監督)から学んで完成させていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法であった。この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法から来る真珠を転がすスタッカート気味のエレガントな奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響は新鮮だった」(平野・38頁)。

モーツアルトとベートーヴェンの時代はピアノが「チェンバロから現代のピアノに近いフォルテ・ピアノ」へ進化する時代。<弦>を<引っ掻いて><音>を出すチェンバロから弦を<叩いて><音>を出すピアノへ――。奏法に変化があったのも当然だろう。

火山は<横浜みなとみらいホール>のレクチャーコンサート「ピアノの歴史」(全4回)を6月から聴講する。「もしショパンが現代のピアノを弾いていたら、あの美しい数々の名曲は生まれていなかったかもしれない」という。「ピアノの誕生」「謀略家としてのハイドン」「モーツアルト、クラヴィーア(チェンバロ)の深層」「ベートーヴェンとシュトライヒャー、ピアノの理想を求めて」――。これが第一期のプログラム。火山は第二期を聞く。

ベートーヴェンのピアノ、特に<即興演奏>は貴族の邸で競演が開かれる都度、名ピアニストを次々と打ち破っていく。「即興演奏は与えられた主題を音形変奏していくか、次々に新しく美しい旋律を継いでゆくのが当時の流儀だった。ところがベートーヴェンの即興は時によってはソナタ楽章やロンド楽章仕立てで、主題動機の展開をもった構築性が追求され、またある時は幻想曲風な自由形式で、しかも構成感を併せ持ち、華麗な技巧的パッセージを織り込んだものだった」(平野・38頁)。

ベートーヴェンが自作の「ピアノ協奏曲」第1番ハ長調(作品15)を初演したのは同じ1795年の12月18日。ハイドン主催の音楽会。ベートーヴェン、栄光の日々のスタートだ。
(平成19年3月29日)25歳のベートーヴェンは「ウィーンで最高のピアニストとしての地位を得るべく公開の場へデビューする。1795年3月29日と30日の2日間に行われたウィーン音楽家協会主催の未亡人慈善音楽会において、ブルグ劇場の大ステージに登場したのである。初日はピアノ協奏曲第2番(作品19)の独奏者として、翌30日にはピアノ即興演奏を行う。モーツアルト未亡人が主催した亡夫のオペラ<皇帝ティトゥスの慈悲>(K621)上演の幕間にモーツアルトのピアノ協奏曲を独奏」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・39頁)。

ベートーヴェンが幕間に弾いたピアノ協奏曲はカデンツァ(ソリスト用の華麗な独奏パート)を自分用に書き残すほど気に入っていた<第20番・ニ短調・K466)だった。即興演奏を披露したのが1795年3月30日。これから142年経った同じ日に<火山>が誕生。その火山はこの<20番ニ短調>を2006年2月12日に東京文化会館で聴き、50年以上もほとんど見向きもしなかったモーツアルトを突然、好きになる。人生は不可思議だ。

さらにもう一つの不思議。1785年のこの日(時差で現地2月11日)にモーツアルト自身が<20番ニ短調>を独奏、初演したのだ。時に29歳。ウィーンで絶頂期を迎えていた。華々しい活躍ぶりを父レオポルトに見せようと、故郷のザルツブルグから父を招待した。モーツアルトの家は現在「フィガロハウス」と呼ばれる豪邸。家賃450フロリン(450万円)というから豪華。オポルトがモーツアルトの姉ナンネルに宛てた手紙が残っている。

「おまえの弟は家具類もすべて整った綺麗な家に住んでいる。こちらに到着した晩、私たちはあの子の予約演奏会の初日を聴きに入ったが、そこには身分の高い人々がたくさん集まっていた。演奏会は(ザルツブルグとは)較べようもない素晴らしさでオーケストラも見事だった。それからヴォルフガングの見事な新作のピアノ協奏曲が披露された」―――<新作の>とは<20番ニ短調>のこと。1785年2月11日だ。

そしてもう一つ。父レオポルトは誇らしげにナンネルに書いている。「翌日の晩にはヨーゼフ・ハイドン氏と2人のティンティン男爵が訪ねてこられて、ヴォルフガングが作曲した3曲の新しい弦楽四重奏を演奏した」(平野・110頁)。ハイドンとの親しい交際を伝える父の目撃談だが、新しい弦楽四重奏曲とはハイドンに献呈された<K465>のこと。

「いずれも充実し切った素晴らしい曲ばかりである。24歳年少のモーツアルトと共にこれらの曲を演奏しながら、ハイドンはどれほど深い感銘を受けたことだろうか」(平野・111頁)。そして有名なハイドンの言葉――「私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。ご子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです」はこの晩、レオポルトが聞いたものだ。

父レオポルトは65歳。2ヶ月余りのウィーン滞在だったが、大満足でザルツブルグに帰る。父は2年後に世を去る。永遠の別れだった。モーツアルトも6年後、35歳の若さで死ぬ。ベートーヴェンは1795年3月31日、モーツアルト未亡人が主催した音楽会でモーツアルトの<20番ニ短調>を演奏した。自作の「ピアノ協奏曲」第2番に始まる3月29日から3日間の連続演奏がベートーヴェン25歳のウィーン楽壇への華々しいデビュー――。ハイドンがモーツアルトを絶賛して10年、モーツアルトが世を去って4年が過ぎていた。

「名演奏家のひしめく当時のウィーンにあってベートーヴェンが注目を浴びたのは独自の二つの武器、一つはボン時代のオルガン奏者として身につけた即興術であり、もう一つはネーフェ(ボン国民劇場の音楽監督)から学んで完成させていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法であった。この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法から来る真珠を転がすスタッカート気味のエレガントな奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響は新鮮だった」(平野・38頁)。

モーツアルトとベートーヴェンの時代はピアノが「チェンバロから現代のピアノに近いフォルテ・ピアノ」へ進化する時代。<弦>を<引っ掻いて><音>を出すチェンバロから弦を<叩いて><音>を出すピアノへ――。奏法に変化があったのも当然だろう。

火山は<横浜みなとみらいホール>のレクチャーコンサート「ピアノの歴史」(全4回)を6月から聴講する。「もしショパンが現代のピアノを弾いていたら、あの美しい数々の名曲は生まれていなかったかもしれない」という。「ピアノの誕生」「謀略家としてのハイドン」「モーツアルト、クラヴィーア(チェンバロ)の深層」「ベートーヴェンとシュトライヒャー、ピアノの理想を求めて」――。これが第一期のプログラム。火山は第二期を聞く。

ベートーヴェンのピアノ、特に<即興演奏>は貴族の邸で競演が開かれる都度、名ピアニストを次々と打ち破っていく。「即興演奏は与えられた主題を音形変奏していくか、次々に新しく美しい旋律を継いでゆくのが当時の流儀だった。ところがベートーヴェンの即興は時によってはソナタ楽章やロンド楽章仕立てで、主題動機の展開をもった構築性が追求され、またある時は幻想曲風な自由形式で、しかも構成感を併せ持ち、華麗な技巧的パッセージを織り込んだものだった」(平野・38頁)。

ベートーヴェンが自作の「ピアノ協奏曲」第1番ハ長調(作品15)を初演したのは同じ1795年の12月18日。ハイドン主催の音楽会。ベートーヴェン、栄光の日々のスタートだ。
(平成19年3月29日)