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「毎日モーツアルト」(NHK・BS)を楽しみに観ている。3月24日(金)は<第40回「ヴァイオリンソナタ」ハ長調K.296>――。モーツアルトの語り手として登場したのは赤川次郎(作家)。初めてもらったサラリーで買ったのがステレオ。真っ先に聴いたのがモーツアルトの「交響曲第40番ト短調」という。<40番ト短調>――。火山も大好きな曲。「単純、それでいて無限に綺麗なメロディ…」と語っていた。

「ヴァイオリンソナタ」ハ長調(K296)は1778年、モーツアルト22歳の時の作品だ。この頃、モーツアルトはマンハイムにいた。故郷のザルツブルグでは大司教のヒエロニュムス・コロレドに仕える宮廷音楽家だったのだが、ただの使用人扱い。幼い頃から<神童>と持て囃され、ウィーン、パリ、ロンドンなどを旅行、オペラや刺激に満ちた素晴らしい音楽の接していたモーツアルトには我慢できない田舎町だった。オペラ劇場も無い。やがて大司教と衝突、ザルツブルグから飛び出す。

1777年9月、母アンナと共に職を求めて、ミュンヘン、父レオポルドの生まれ故郷アウグスブルグ、最後に来たのがマンハイムだった。マンハイムには当時ドイツ最高のオーケストラがあり、オペラも盛んだった。芸術や音楽に熱心な選帝侯マクシミリアン3世もいた。マンハイムの宮廷こそ最も望ましい就職先。
ザルツブルグを離れられない父レオポルドからも期待されていた。

「礼儀作法、挙動によく気をつけて、なるべく多くの人たちと親しくなるようにしなさい」という父の忠告に従って音楽家たちとの交際を広げていた。1ヶ月ほど経って就職の見込みがないことがハッキリした。だがモーツアルトはマンハイムを離れない。マンハイムの宮廷のバス歌手、そして写譜係で生計を立てていたフランツ・フリードリッヒ・ウェーバーの次女アロイジアに首ったけだったのだ。

アロイジアは16歳、ソプラノ歌手で綺麗な澄んだ声の持主。歌は素晴らしいし、ピアノもうまい。レッスンや共演を重ねるうちに夢中になってしまったのだ。だが父は怒った。「お前は誰でも他人をすぐ信用してしまう。お世辞や耳障りのいい言葉を聞くと、お人よしを丸出しにする。お前が人々にすぐ忘れられてしまう平凡な音楽家になるか、後世までも本で読まれる有名な楽長になるかは、お前の分別と生き方にかかっている。パリに行くのだ。それもすぐに!!」――。

厳しい叱責の手紙にモーツアルトはついにパリ行きを決意せざるをえない。別れの日が来た。1778年3月24日。なんと228年前の昨日だ。パリ行きに先立って宮廷楽団首席奏者カンナビヒの家で「送別コンサート」が開かれた。カンナビヒの家には3台のクラヴィーア(ピアノの前身)があった。

1台目を弾いたのは宮廷歌人のテレーゼ。妖精という渾名の娘。2台目はカンナビヒ家の長女ローザ。モーツアルトは彼女のために「ピアノソナタ」ハ長調(K309)を書いている。3台目が恋するアロイジアだった。モーツアルトは彼女のためにソプラノのアリア「私は知らない。この愛情がどこから来るのか」を作曲した。この歌もこの日歌われたという。

翌日、モーツアルトの乗った馬車が並木道の角を曲がり、見えなくなるまで人々は見送った。モーツアルトのためにアロイジアは「手編みのレースの袖飾り」をプレゼントしてくれた。モーツアルトの心情は察するに余りある。幼い頃から尊敬する父。モーツアルトの天才を見抜き、神童としてデビューさせ、音楽家に育ててくれた大恩人。父の命令は絶対だった。

せっかくのパリだったが、モーツアルトには仕事がなかった。しかも7月3日、最愛の母マリアが亡くなる。旅と異郷の暮らしの疲れだったという。父の矢の催促にモーツアルトは3ヶ月がかりで郷里ザルツブルグへ向かう。途中でミュンヘンに寄った。そこにはあのアロイジアがいた。失意のモーツアルトは思い切って結婚の申し込みをする。だが彼女は冷たくはねつけたという。

人気プリマドンナに成長していたアロイジア。定職も無い貧乏作曲家など論外だったのだ。このアロイジア・ウェーバー嬢というのはあの有名な作曲家カール・マリア・フォン・ウエーバーの従姉妹というから世間は狭い。もう一つ世間が狭い話。実は後年、モーツアルトが結婚したコンスタンツェというのはアロイジアの妹。姉と違って美人ではなかったらしい。可哀想なモーツアルトだ。