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「昭和7年5月15日に海軍の青年将校が首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、警視庁などを襲撃、犬養毅首相を射殺した。<5・15事件>。第一次ロンドン海軍軍縮会議の結果への不満が爆発したものだというのが一般の解釈だった」(「海燃ゆ」・以下も)。

五十六は「交渉を決裂させ無条約時代に突入するのは反対だった。アメリカやイギリスを完全に敵にまわすことを意味していた。彼らと戦って勝てるほどの海軍力が日本にないことを五十六はよく承知していた。五十六は今回(昭和10年第二次ロンドン会議)は条約派であった。残念ながら日本政府は艦隊派の勢力が強く、わざわざアメリカやイギリスが受け入れるはずもない提案を行って、無条約状態にもっていこうとする雰囲気」が強かった。

昭和5年7月、枢密院にロンドン条約の批准がかけられると、反発して辞任した加藤前軍令部長や政友会の領袖は政府に一泡吹かせようと画策した。浜口首相は枢密院が勝手なことをいうなら一戦も辞さないと強い態度で臨んだ。

枢密院は明治憲法が決めた天皇の諮問機関。官制の改正、条約の批准、緊急勅令案など重要国務は承認が必要。天皇の権限で政府や議会の力を制限する明治憲法のからくりだった。
浜口首相が強い態度が取れたのは昭和5年2月の第2回<普通選挙>で与党・民政党が大勝したから。一人だけの元老・西園寺公望も枢密院の横暴を憎み、政府を激励していた。小泉首相の祖父・又次郎は浜口内閣の逓信大臣。普通選挙運動に貢献した論功行賞だった。

世論も政府に味方した。新聞はロンドン条約に賛成。枢密院に対する大新聞の攻撃は猛烈だった。特に「東京日日新聞」(現毎日新聞)の丸山幹治は「もし枢府が諮詢案を否決したら、政府は天皇に上奏して聖断を仰ぐべしとか、枢府の議員は内閣の奏請で罷免できるのだから恐るるにたらないと健筆を振るって枢府をちぢみ上がらせた」(「日本の歴史」第24巻大内力「ファシズムへの道」283頁)。

浜口雄幸内閣は軍部や枢府を抑えた。政党内閣の勝利の金字塔だ。だが「民意の上に立った政党内閣の最後の勝利でもあった。翌月には早くも敗退の歴史が始まった」(大内力283頁)。―――昭和5年11月、浜口首相は東京駅で暴漢の凶弾に倒れた。

昭和6年3月、参謀本部の陸大出の佐官・尉官級将校で結成した<桜会>のクーデターが発覚。<3月事件>だ。陸軍内の派閥争いから起こった革新運動が民間右翼と結びつき、政権を奪取、国家改造に乗り出そうとした。若手将校を革新熱に駆り立てたものは何か。
第一は世界情勢に対する危機意識と不満。デモクラシーの勃興、社会主義勢力の発展、中国問題の激化、満蒙の危機などだ。経済的にも不況、特に農村不況が深刻だった。
第二は<天皇の軍隊>という特権意識。日本の軍隊は天皇に直属、一命を天皇に捧げる。天皇の命に従って部下を統率するのが指導理念。だから政党内閣や議会が軍に制約を加えることが我慢できなかった。政党政治の下で<軍縮>が強行されたことが反感を強めた。軍に言わせれば軍縮は<国防>を危うくするものだった。

政党政治が泥仕合、汚職、駆引きに終始していたことも彼らの不信感を刺激した。政党と結託した田中義一(元首相)、宇垣一成(前陸相)などが憎悪の対象とされた。
第三は右翼からの働きかけ。大正8年(1919年)大川周明、北一輝らを中心にファシスト運動が起こる。猶存社。北一輝は以後<2・26事件>まで軍部ファシストの理論的指導者となる。彼の「日本改造法案大綱」は西田税以下ファシスト将校のバイブルとなった。
「日本のような小領土の国は発展のために、大領土を占有するイギリスやロシアと戦う権利がある。英露をアジアから駆逐、日本を盟主とする大アジアを作る。このため国内では天皇を奉じ国家の改造を図らねばならない。
まず天皇の大権を発動、3年間憲法を停止、戒厳令を布く。華族・貴族院を廃止、百万円以上の私有財産、時価10万円以上の土地所有の禁止等々を実施する」と説いたという。

<3月事件>は<桜会>に大川周明も参加して計画されたクーデター。「3月20日に民間の右翼と無産政党を動員して1万人の大デモを議会にかけさせる。また同時に政・民両党本部、首相官邸を爆破させる。軍はそれに乗じて非常呼集をかけ、議会保護の名目で議事堂を包囲し交通を遮断する。そのあと陸軍の代表(真崎甚三郎中将が考えられていたという)が議場に入り、国民は現内閣を信頼しないから辞職せよと迫り、幣原首相代理以下を辞職させる。他方、閑院宮・西園寺を動かして大命を宇垣に降下させるといった筋書きのものであった」(大内力「ファシズムへの道」298頁)。

事件は真相不明のまま<竜頭蛇尾>で終わった。軍はひた隠し。誰の責任も問われなかった。<臭いものにフタ>…。この結果「軍の統制力が落ち、中堅層が独走体制を強くしたことは重要であった。あとでみるように満州事変も、こういう前提があって初めて可能になった」(大内力301頁)。―――五十六と日本の悲劇もこれに絡んでくる。