大家族の話 | 米の心

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少子高齢化が進む日本、ついには東京も含めて全都道府県での人口減少が見られたとのことです。岸田内閣は少子化対策として様々なことにお金をかけようとしているようですが、正直なところそれが効果を示す可能性は極めて低いと思われます。福祉国家として有名な北欧などですら出生率が低いという現状を解決することができていないからです。

さて、ではどうすれば人が増えるのか、という点についてでは逆に人口増加社会であった時の日本社会はどのようであったか、というのは一つの答えかもしれません。

現在は核家族化が進んでおり、以前のような大家族な家というのは少なくなったように思います。

核家族が増えたというのは、個人的には少子化に繋がったことの大きな理由の一つであるともいえるかもしれません。

単純に、例えば一人暮らしであれば、身の回りのことを全て自分でやる必要があります。料理は外食で、家の掃除は家政婦を雇ってということをすればやらないということも可能ですがそれにはそれ相応の出費が必要となります。

出費を抑えるためには、自分で掃除洗濯、料理といったことをある程度はする必要があると言えるでしょう。自分のために全ての時間を注ぐことができる一方で、自分のことは自分でやらなければならないというのが一人暮らしということができます。

家庭を持つ、家族と一緒に住むというのは、自分でやらなければならないことを共有し、分担するということを意味します。

これは、専業主婦のような形であっても、外で稼ぐと家のことをやるということで役割分担をしているということになります。一人暮らしであれば、稼ぐことも家のことも全て自分でやる必要があるからです。

共働きであれば、その分家の役割というのも変わってくるかもしれません。

ここで子供を持つということは、子供のために使う時間、労力、お金がかかるということになります。

夫婦二人で過ごすといったところからすると、子育てにかけるものというのは莫大になり、それは核家族なら両親で負担をする必要があるということになります。子供を見るにもつきっきりになり、子供から目を離すには、保育園に預けたりするか、それ相応の年になるまではなかなかできないでしょう。

となると、結果、子供を多く産んで育て上げるというのは現実的ではないということになります。幼児の育児に追われている中で、子供をもう一人産み育てるというのは様々な面で難しい面が出てくるからです。

では、ここで大家族であるとどうでしょうか?

祖父母とともに住んでいいる構造になると、子育ての負担が両親だけから祖父母も含めた家族全体で手助けするという形に変わるということを意味します。つまり、これは出産後の幼児期の子育てという最も負担が多い時期に関してある程度その負担を軽減することができるということになります。

祖父母が見てくれてその分時間にもゆとりができるかもしれません。

そうなると、子供をもう一人産むという環境もできてくるわけです。

昔の農家などであれば、子供は労働力でもあるため、子供がたくさんというのはそれは働き手としても重要となります。

昔は、子供を産めない母親に対して非常に冷たい目で見られるという時もあったようです。子のできぬ嫁はいらないといった感じです。

これは、逆に言えば、嫁の仕事は子を産むことであるということを表しています。そして、それは産むことであって、育てることまでは含まれていないということになります。

つまり、子を育てるというのは母親ではなく、その家族でやれるものであり、そこまでは最低求められていない、逆に言えば、子育ての負担を他が負う環境が用意されていたということになります。

ちなみに老後という言葉がありますが、老後がある生物というのは実はレアだと言われています。老後をどう定義するかにもよりますが、閉経後、つまりは子供を産めなくなった後何十年も生きるというのは人間くらいしかいません。

動物にとって子孫を残すことが重要であり、そのためには子供を産むことが必要であり、子供を産めなくなった後というのは本来生命としての価値がないからです。

その点人間に老後があるというのは、子供が産めなくなった後、老後に対して役割があるからとも捉えることができます。

それが、集団生活、大家族における子育てというところにあり、子育てをやる役割の人がいるから、安心して子供を産みやすい環境があるということになります。

大家族というのは最もそのなかでわかりやすい構造の一つですが、この点は集団生活であれば基本的には問題がないはずです。

昔のムラ社会というのはそういう意味では、互いのプライバシーの尊重もないかもしれませんが、互いが互いを助け合うムラの中で生きていく構造があることによって、子供を見る、育てるというのもムラ全体で行われていたということが言えます。

今NHKの朝の連ドラで牧野富太郎を原作としたらんまんが放送されていますが、らんまんの長屋生活というのもまた、長屋全体で一緒に生活する共同体としてのシーンが描かれています。ともに助け合う生活、環境それがそこにはあるのです。

核家族になるとともに助け合う環境というのはそこにはありません。だから自分たちでなんとかしなければならない、その中で子供を何人も産もうというのは難しい話ではないでしょうか。

よって、仮に少子化対策をするのであれば、子育て支援などをお金でするのではなく、社会として互いに助け合う構造というのを構築する必要があるということが言えますが、それを政府主導の中でやっていくというのはおそらく難しいでしょうし、可能だとしても、それはもっとムラなどの小さい規模でそれぞれの同意のもとでそれを考えた場合などに限定されるように思います。

人口が増加している国などを見ると発展途上国などが多い傾向がありますが、それとともにそういう人口が増えているところは単純に家族の単位が大きいともいうことができます。

それを核家族化した中でおぎなうというのであれば、例えばベビーシッターを雇うなどをすればできるのかもしれませんが、24時間対応してくれるようなベビーシッターを雇うとなると相応のお金が必要となるでしょう。上述のようにムラ、隣人と助け合う構造にしても、やはり遠慮があったり、なかなかいつでもというのは難しいところがあります。

だからこそ、大家族というのは偉大であり、それが人間が増えてきた理由の一つともいうことができ、そして、それをやめた人間だからこそ、少子化の方向へ進むのはそれぞれの役割をどう果たしていくのかという観点で考えてもある意味当然といえるのかもしれません。