日本と規格 | 米の心

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前の記事で三つ編みと校則の話をしましたが、校則というのはつまり規格化するというような側面がありますからその辺りと日本の話。

日本の場合ルールをつくるのが下手ですがルール、規定をするというのは好きです。ルールをつくるのが下手というのは単純にルールにおける根本とする何かがなかったりするからです。つまりなぜそのルールを守る必要があるのかという点ですね。

さて、日本というのはアジアでも早い段階から近代化が進んだ国の一つである一方で島国でありあまり日本人が描く日本人像の外というのが今まで想定しにくかったりします。それがまぁ三つ編みの話にも繋がるわけですが、規格化する目的というのは単純に言えばその方が扱いがし易くなるからです。

しかし、その扱いをし易くしようとした場合、各段階においての課題というのが現れます。

例えば今では様々なデータというのがコンピューター、システムで管理されているかと思います。そのDBを作成するにしてもこの項目には例えば全角かなでの入力を求めるとか、桁数は何桁まで入力可能などを設定していくわけです。

DB上でデータを管理しようとした場合に、全角かなに半角かな、アルファベット、1bite、2biteもごっちゃであればデータ管理が難しくなります。

さて、日本においてコンピューターなどというのは以前は非常に強い分野だった様に思います。ゲームなんかもそうですね。

ただ、昔と今ではそもそもサイズ、規模というものの考え方が全然異なります。今の写真などは昔のゲームよりよほど容量を持つ様な時代なわけですが、昔は限られたサイズの中に如何におさめようかという努力をしていたわけです。

ドラゴンクエストでひらがらとカタカナの「り」を同じものを使う事で少しでもバイトを抑えようとしていたなんて秘話を聞いたことがある人もいるかもしれません。

ゲームのキャラの能力などの数値も少ないバイト数でつくろうとすれば自然当てられるものも限定的になります。16進法のFF、つまり255までが能力の最大というのも、次の桁になればバイトの食う容量が変わってくるのも仕方がない側面があったというわけです。

一方で今ではもはやゲームのサイズなどあってないようでいくらでも拡張できるような話ですね。昔のゲームでちまちまとそういうのをあれこれ考えてサイジングしていた規格というのは時代に合っていないというわけです。

規格という話でいえば、これは申込用紙などにも現れます。

マークシートのようなものであれば名前などについても一文字一文字枠が準備されていたりしますね。

日本語、日本人のみを想定した場合、その桁数とかは十分に見込めるサイズというのはあるでしょうがそうではない想定にした途端それは全くの不都合の産物になります。

しかし多くの場合その規格というのをベースにしたものは現在に置いても継続的にアップデートされて利用されています。

規格というのはベース、骨幹を司るものですから、そこの拡張というのは本来難しいものがあります。そういうルールでつくられているからです。

そしてその事の拡張に多くの場合、多くの人は必要性を感じません。日本に住む日本人だからです。

よってこのような問題は外国の方やハーフの方などの方がより感じられるシーンというのは多いかも知れません。

本来的に言えば国際的に開けていく事を考えるとこれは当然修正され、不自由を感じる人というのは少なくあるべきかもしれません。

ただ、そうなると根本的な規格、ルールの段階を作り直し、そちらに移行するというコストが求められる様になります。少数派の為にではそれだけのコストをかけて改善していく必要があると考える人というのはおそらく多くはいないでしょう。そうするとそれは当然以前のものを相変わらず使うということになります。

また、そもそもルールをつくるのが下手な人たちですからそれを改正するというのも得意ではありません。それは未だに日本国憲法が戦前につくられたものを活用している事からも、また、法改正したところでロクな法改正でないものばかりという事からも見て取れます。

憲法ですらその様な話なのですから、他のものについても今何故それをする必要があるのか明確に危機感があるということになる機会というのは相当にないと言えます。

校則には変なものが多いというのは三つ編みの話に限らずよく聞きますが、それを設定した当初の設定するシーンからするとそれは当初からしておかしな話ばかりではなかったのかもしれません。しかし、時代が変化する中でそれをアップデートする事をしない、する必要性を感じないが故にそれがどんどん時代遅れになっていくというわけです。

三つ編みを禁止している校則を変えなくても学校側からするとおそらく不便となるものはほとんどないでしょうし、また、逆に変えて髪型自由などにすると風紀の乱れどうのと騒ぐ人も出てくるのでそちらの対応の方が困るかもしれません。

ルール、規格、骨組みというのはあくまでその当時に求められているものであり、それは時代とともに変わっていくものであり、そして、今の時代でいえばもはやそれは可変性があるものとしてそれを想定してつくられるべきとすらいえるのかもしれません。

しかし、そこにおいてそういうことが出来ていないというのは今の日本の様々なところにある根本的な問題である様に思いますね。

例えば時代帯などは閉鎖的な空間であったのもありDOSなどで作成したプログラムをずっとつかっていたりしました。そしてそれが使える端末が求められて来たわけです。しかしいくら閉鎖的であろうとそのような端末を求めてそれを使い続けるというのが果たして時代にフィットしたベストな答えかは別です。

もちろん、コストに対して十分な予算を組み込む事が出来るかなど様々な問題もあるのかもしれませんが、固定的な規格、規模が前提にあってという時代ではすでにないということはある程度認識しておく必要がある様に思いますね。

今回の話は規格というものにとらわれすぎているという側面が日本は強いのではないかという話です。規格に合わなくなれば新しい規格をつくればいいだけであり、それは産業界では、DVDがブルーレイになったりと様々なところで国際的な規模でも行われている話です。それを生産物などではなくシステム、ルールと言ったところにも本来的に当てはめていく必要はあるのではないでしょうか。