王家の血統 | 米の心

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良家の出身というところを古い人間や育った家庭によっては非常に気にする場合というのがあります。血統がその人を示すわけではないのかもしれませんが、大切な財産、家などと継承して行く上で何をもって判断するかとなると確かにお家柄などを判断材料にするというのはおかしな話ではありません。

家柄がよければ、それだけ最低限の教育、教養などを受ける機会があったというのも確かだろうと思われます。

血統、良血であることを求められるのは何も人ばかりではありません。ブリーダー、ペットの世界であったり、競走馬の世界、あるいは、家畜などにおいても同様です。

家畜などは生産力を求められるので、それだけ身体が強い事や、乳の出がいい血統というのが求められますし、競走馬であれば速く走れる能力を求めて血を求めます。

ペットなどにおいて、なぜ良血がよしとされるかは、ある意味でそれがその所在を示しているからとも言われています。

当然見目が美しいなどといったこともあるのかもしれませんが、例えば父や母がどうであるかということが分かる事によって遺伝的にこういう病気になり易いとか、そういうことが分かるからです。それが分かれば、より正しく、早く対処をする事も可能になるからです。

出自がきちんと分かるという事は、それだけ色々な点において有利に分かるという事になります。

ちなみに少し脱せんした話をすれば、日本において血という言葉は日本では古来は好まれていませんでした。血という言葉使った漢字は様々にありますが、その言葉が使われる様になったのは江戸以降が多いそうです。

そもそも日本の場合は、血に対して穢れとみる文化が強く、その文化においては血という言葉を使う事も忌み嫌っていた様です。

それが、江戸以降になると増えてくるのは、血筋を重んじたり、武士道などの考え方も浸透し、血というものに対しての考え方が変わっていたという中にある様です。

西洋文化などにおいては、血は日本の様に穢れなどと捉えるものでは当初からなかった様です。そもそも西洋文化圏は狩猟、牧畜の文化圏であり、動物の血というのは、新鮮であれば、重要なビタミン源としての意味合いもあり、好まれて料理などにも利用されたりしますね。これはある種の文化と栄養源の獲得の違いの問題も文化的背景にはあったのかと思います。

さて、日本では家柄を求めたりもしますが、その場合は、本当に家を継ぐ事が優先的であり、その意味合いで言えば血が必ずしもというケースも少なくありません。

商家などにおいては、すぐれていないドラ息子に継がすよりは、出来のいい子を養子にして継いで行くという事もあった様です。まぁ、実子ですぐれていたりするならそれに超した事はないですし、子を同盟相手に婚約させたり、天子にという話もあったりとまぁその辺りは政治の道具に色々と使われてたりもしますが。

西洋史なんかをみてみると、割とスペイン国王と、イギリスの云々みたいにあちらこちらで王族の血のつながりというのを感じたりします。

歴史において王族や貴族などは特別な存在であると言えます。

なぜ、特別かというとその存在が歴史上に残っている事が分かっているからです。血統書が代々判明している人というのはそうはいないのです。

まぁ、場合によっては本当の親はどこの種かわからないなんて事もあったりしますが、親が代々分かっているといて、それが今にも繋がっているということなどは言って見れば今の王族を辿れば、例えば、遺品や骨などをとっても、その人間関係などをDNA的に証明できるということになります。

これは、同じ時代に生きていた他の人たちではできないことですね。

既に血が今の時代には残っていなくても、歴史的背景と、骨やミイラなどの遺物があれば、それからやはりそういう家族関係などが分かる様になります。

王族自身が特別な存在であるか、優秀な血統であるかというのはともかくとして、血の背景が分かる、特に今の様にDNAの流れが分かる時代になれば、その存在というのは非常に重要であるとも言えるかも知れません。

最近では、もうDNAなどによる鑑定というのが当たり前の様になりましたが、その中でそれが誰だか特定できるというのは歴史的な裏付けを考える上では非常に広がりをみせていると言えます。

代々継がれる王家の血統というのは、その意味合いにおいて歴史があり、判明しているという上で非常に重要な足がかりであるというわけですね。