無自覚not無責任 | 米の心

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以前にも記述したことがあるかもしれませんが何かを自覚するというのは非常に難しいことです。なぜならば自覚できていることに関しては問題がないですが自覚ができていないことは指摘されてもそれを自覚できるとは限らないからです。

無自覚なものを自覚させることというのは簡単にできるものではありません。

新型コロナウイルスが猛威を奮っていますが、実際に検査も受けられる受けられないなどという状況にあってでは感染しているかどうかなどということを自覚するというのは非常に難しい問題です。症状に現れていたら控えるというのはわからなくはないですが、軽症であればほとんど症状に出ないこともあるようで、そうなるとウイルスを町中に拡散していることについて本人は無自覚となるわけです。

若者が夜出歩くなんていってバッシングをされたりもしますが、健康で体力のある誰かからすれば重い症状にならず重い症状でなければ自分は健康体であると思っても仕方がないかもしれません。

注意喚起をする人は多くいますが、本人に自覚がないのでは仕方がないですし、正直注意喚起をしたところで耳を貸さない人は耳を貸すことはありません。

とはいえ、ウイルスを拡散していたとしたらそれによって誰かが感染し、また誰かが感染しとなり、その結果誰かが重体となり、死亡するということにもつながるかもしれません。

この場合罪には問われはしないでしょうが、その原因を作ったわけであり、知らず知らずのうちに人を殺してしまっているかもしれません。

hydeが無自覚な誰かの活動によって自分の愛する人がそうなったら許さないなんてことを投稿していましたが、強い言葉ですね。

とはいえ、正直感染そのものを本当に止めようと思えば経済活動なども止めなければならず、そうではない限りは人と接触する生活そのものはある程度生じるわけで、自粛の意味合いが一体どれほどに効果的であるかというのは結局のところどこまで全体で本気で対応するかということにもよりますし、ではワクチンの開発がすぐできるかといえばそうでもない、何かを食べれば免疫力がつくなんてことを言う人もいますが、この短い間で果たしてそのような医学的に正しいデータが取れているかといえばそうではないでしょうから基本的には憶測の話が出回っているにすぎません。

そう考えると、そもそもコロナウイルスとはある程度共存ではないですが、それがあるものとしての生活というのをある程度のスパンで考える必要があり、そうなると、経済活動なども一切止めて人との接触を控えるような行為が果たして本当に望ましいのかといえば疑問でもあります。

また、もっといえば、確かにコロナウイルスの感染源として人に移さないことによる死亡というのは防げるかもしれませんが、では経済的な理由による死を防げるか、そのことの原因になることに対してはどのように自覚をしているのかといえば、こちらに関しては多くの人は全くの無自覚で終わります。

今回の話は究極的にいえば、どこまでウイルスによる死や感染を受け入れるか、反対に経済的な理由による死や衰退を受け入れるかというところの線引きをどう測るかということであり、そこは明確な姿勢があれば正直どちらが正しいとも言い切れる問題ではないというのが個人的な印象です。

感染拡大などで恐怖になり、またそのことに対してその対応が良かったどうの、夜遊びをしている人にどうのという声もありますが、それは表面的なものをただ批判しているにすぎないとも言うことができます。

さて、その上でやはりウイルスの問題というのは、自覚できないことでしょう。ウイルスではなくとも人は多くの菌類などと共存関係にあり、それをどこにでも持ち運んでいるわけですから、そんなのはまぁ当たり前と言っては当たり前なことなのかもしれません。

それを踏まえて、経済的な死がいいのか、コロナの感染を広げるのがいいのかというのではなく、個々の行動に自覚があってこそそれを少しでも抑えられるというのは確かなことです。

感染を自覚できるかできないか、(できるような状態であればなおさらですが)自分が感染者であると仮定し、その責任がある立場としてどう行動するかということも一つの結論だったりもします。

感染者と仮定してしまえばひきこもれよともなるわけなのですが、自覚できないからこそそこから起こる大きな責任、問題をどう捉えるかということは考えた上での行動をすべきなのかもしれません。少なくとも無自覚だから無責任であっていいということではないのは確かなわけですから。