社員がどこを向いているか | 米の心

米の心

野球にサッカー、NBA、F1とスポーツ全般から、西洋や江戸、日本の歴史、経済、文化、社会や科学、時勢ネタその他種々雑多をただただとりとめもなくぼやくブログです。

伸びる企業伸びない企業とありますが、結局のところ企業というのは現状人と技術の組み合わせによって成り立っているところがあるように私は感じています。

私の勤めたことのある企業の中には公務員的なところが非常に感じられたりするところもあって、そういうところであればこの後ここはどうやってやっていくのかとも疑問に思ったりします。

投資かなどは企業を見るときに社会貢献できる企業であるかどうかなどを見ることがありますが、社会貢献できる企業というのはいってみればそれだけ需要ある企業ということにもなりますから、社会貢献という考え方そのもので企業を見るというのは間違った見方ではないといえます。

例えば、アメリカなどではどこにamazonの第二本社がつくられるか?ということが話題になったりしました。

amazonは今世界で最も力のある企業の一つですが、その思想や技術が単純にすごいというだけではなく、それだけの雇用を生み出しているという点では非常に社会貢献度の高い企業であるといえます。

第二本社をどこにするかという話が話題になるのも、それはその第二本社を構えたところにおける雇用が活性化するからですね。アメリカでは世界恐慌時にニューディール政策の一環で、cccによる積極的な雇用政策などがありましたが、企業活動が活発であれば、そもそも雇用への需要も高くなり、労働市場そのものが活発になるというわけです。

少し脱線した話をしますと、日本では今外国人労働者を国が積極的に求めようとする動きを示していますが、このことは個人的には2つの観点でお勧めできないと考えています。

一つ目の観点は、外国人労働者といういい肩をしているだけで、言ってみれば移民でしかありません。難民などとは違い正規の流れでの労働資源の獲得といった話とでもいうのでしょうか?

労働者を外に求めるということは、特に日本のような土壌を持っているところでは割と今後厄介なことが起きる可能性はしばしばあります。

記述したこともあるかもしれませんが、移民問題の本質的な問題というのは今現在ではなく長期的で永続的にわたる民族間問題に発展してしまうことです。外国人労働者は外国人労働者でコミュニティが形成され、そしてそのコミュニティのために税金が使われ、土地が奪われ、街が奪われ、そしてそのコミュニティのための主張というのが政治には反映されるようになることです。

このことは、元々そこにいた人たちからすれば面白くないとなるわけです。単純に移民が道徳観倫理観の違い等もあって問題を起こしやすいというだけではなく、問題が起きやすい環境になりやすく、また、そういう立場の人が増えることによって発言権が増し、じわじわと自分たちの場所というのが侵食されていくという思いになってしまうのです。

それとは別に移民は移民で何世になっても外の人という扱いをされ、ある種の迫害を感じてしまうわけですから、両者の溝がなかなか埋まらないというのは往々に世界で見られる話ですね。この辺り外国人労働者に対してどういう認識であるかというのは少し長期的な視野でどうとらえているのかというのは興味のあるところです。

もう一つの観点は、外国人労働者が安い時給で働くことによって、現在の日本のいびつともいえる労働市場の修正が遅れることです。

今コンビニでバイトをしたがる日本人がほとんどいないのは、時給に見合うバイトの内容ではないと単純に言えば判断するからです。そして本来だれもやらなければ、時給は適性地に向かって上がっていくしかなく、また、機械化、自動化というところの兼ね合いが今度は焦点になっていくでしょう。

しかし、外国人労働者を提供することによって現在の安い給料体系というのが維持されてしまうとアルバイト市場の正常化が難しくなってしまうわけです。実際、アルバイトなどで外国人労働者をあてがうというシーンはあちらこちらで見られており、これは本来労働者不足に問題があるのか、労働に見合った市場が構築されているのか、よりaiなどもふくめたシステム化ができないかなどの問題の混在の中で、あるべき道筋を安易にゆがめてしまう可能性があるといえます。

そんな話もあって、私は外国人労働者の流入というのはあまり積極的には今のところ賛同しないケースが少なくないといった話ですが、閑話休題。戻します。

さて、amazonなどをみても労働者を獲得し、それのことそのものが社会貢献に寄与しているわけですが、それは日本の大企業であれ中小企業であれある意味では同じことが言えるわけですが、ここで、最近どうもうまくいっていない、うまくいきそうにない企業とそうではない企業の違いは何かというところで感じる話で言えば、言ってしまえば、結局のところベクトルなのかな?という印象を受けます。

先に例に出したamazonですが、こちらについては規模が大きすぎるのですべてがそういう話ではないのは当然あるとしても、基本的には様々なことに対して積極的にチャレンジできている企業という印象を持っている方は多いのではないでしょうか?

amazonのベゾスは、会議嫌いで有名な人であったりします。そもそも、組織という考え方への執着がなく、個々で自由なことをして結果で示せという考え方を持っています。

積極的にどんどん外へ外へと勝手に広がっていくような状態を理想としているとでも言えるのでしょうか?

amazonのそのスタイルは何が優れているのか?という話で考えてみると、それは社員の向いている方向、ベクトルが常に外について向けられ、自分の進む道を自分の目で見据える状態であることです。いってみれば、自分の隣のやつが何をやってようがそのようなことを気にするのではなく、自分の仕事に対して時間を費やすということができやすい環境であるということです。

一方、企業では、しばしば、隣の芝生を見てしまうような、つまり社員が会社の外に対して目を向けているのではなく、中について目を向けてしまっている状態というのを見ることができます。

例えば、新規開発をするような部門は赤字であることが少なくありません。それに対して原稿で利益を出している部門の社員が、その給料体系などをみて避難するなどといった感じでしょうか?

こうなってくると互い互い社内のことばかりにきて、社内で軋轢が出てしまったり、仕事の流れというのがスムーズにならないという問題が起きてしまうというわけです。

基本的に企業活動において、社員が中を見るという他状態であることは好ましい方向に進むことはまずありません。企業が、積極的に成長するためには外を見つめ、それぞれが外に外に広がっていくからこそどんどん活性化し進んでいくことができるからです。

別に、今利益を挙げている部門があるならばそのことを誇りに思いさらにどうすえばいいか考えればよく、基礎開発をしている人に対して不満を抱き、文句をいう必要なんてないわけです。アメリカなどは割とそれぞれの役割が分かれているためそこは割り切りが日本よりできているかもしれません。

逆に言えば、社員の目線が外ではなく内側に向き始めたら、それは徐々に会社が課題を抱え始めていることを示しているといえます。外ではなく内を向いている際は、モチベーションも低い社員というのは少なくなく生産性が落ちる原因になったりもします。(まぁ、そういう状態でも企業がある種成り立つ状態であるともいえ、それがさらに内を見る状態にさせてい待っているともいえますが。)

さて、企業を見る上で社会的貢献についての話などを最初にしましたが、社会的貢献や社風、企業理念そういうものが大事とされるのは、雇用におけるミスマッチを低下されるとともに、その掲げられたものに向かって個々が機能している上においては、社員の視線を中ではなく外に向けさせやすいからというのもあるように感じます。

その意味合いでは、もし中ばかりみて問題を抱えている企業の経営者については、まず、自分の企業がどういうものであるかを立ち返り、そして社員との間でのミスマッチが起きていないのか、その理念が浸透しているかという点を振り返ることは必要かもしれません。

ブラック企業と呼ばれる企業は、割と企業理念などを社員に積極的に植え付けようとしますが、そうすることによって生きがいをうませ、その会社ともに社会貢献していると思わせることに成功しているケースなどもありますね。

それをよしとするわけではありませんが、どこを向けさせるかということは、労働力の活用においてはより考えるべき話だといえるのかもしれませんね。