さて、この記事を書く時が来てしまいました。この代の引退試合となった、東京私学選手権決勝トーナメント。この代に限らず、この大会が本校の3年の引退試合となっています。3年間の集大成としてどんな試合になるか、私も全く予想が付きませんでした。ただ漠然と、良い試合になれば、3年が悔いなく終われる様な試合が出来れば、と思い試合に臨みました。

東京私学選手権の決勝トーナメントは昨年の特別大会から大田区のガス橋ソフトボール場で行われています。大田区ソフトボール連盟のご協力のおかげで4面同時展開出来るほか、審判さんも集めやすく、非常に助かっています。今年度も、このガス橋から近いと言うことで、日体大荏原高校と共に、グラウンド設営を手伝わさせて頂きました。審判さん達も一緒になってグラウンドを4面作り上げました。皆さんのご協力に感謝します。

さて、本校の3年の引退をかけた決勝トーナメントの相手は淑徳高校でした。一昨年奇跡が起き、勝つことが出来ましたが、今年度も春季大会ではベスト4に入っている強豪です。相手に取って不足無し。思い切りぶつかっていける相手でした。本校は第2試合。準備も万端、さあ結果は…

 

 

 

 

東京私学選手権決勝トーナメント1回戦 第2試合

 

淑徳     0001303   7

駒澤大学  0110100   3

 

負けてしまいました。この試合の先発は2年のエース。一戦必勝の気持ちで試合に臨みました。

後攻を取った本校の初回の守り。いきなりエラーが出てしまいます。セカンドとライトの間に飛んだ打球をセカンドが取れず、2べースに。いきなりの大ピンチです。続く2番をセンターフライ。3番を見逃し三振に切って取り、2アウト2塁に。4番には四球。5番の時にはファーストゴロをエラー。

これで2アウト1,3塁。最後のバッターを何とかセンターフライに切って取り、無失点で切り抜けます。

 

ピンチを防いだ本校。何とか先制したいところです。先頭がサード強襲ヒットで出塁。2番がバント。これが内野安打となり、無死1,2塁。チャンス到来です。3番が送り、1アウト2,3塁に。ここは是が非でも得点を奪いたい所。ここで4番のキャッチャーはショートフライ…。最大のチャンスを逃してしまいます。続く5番もファーストファールフライで3アウトチェンジ。お互いチャンスの潰し合いとなってしまいました。

 

続く2回以降もピンチの連続。2回も先頭に出塁を許し、2アウト2,3塁を作られます。ここも三振で切って取り無失点で切り抜けます。2回裏、ついに均衡が破れます。1アウトから7番が四球で出ると、8番が送りバント。ここでミスが出て、1アウト1,2塁。9番のキャプテンがバントを決め、2アウト2,3塁に。ここで1番がセンター前タイムリーが飛びだし、1点を先制します。後続は断たれますが、押されに押された展開からよくぞ先制したと思います。3回裏にも4番の3ベースヒットが出て1点を追加、2-0と追加点を奪います。

 

試合の潮目が変わったのは4回表。先頭にセーフティバントを決められ、続くバッターはライトゴロで1アウト2塁。この次のバッターは三振。これで2アウト2塁。続くバッターの時にバッテリエラーが出て2アウト3塁に。このバッターをチェンジアップで空振り三振。ワンバウンドしたので1塁へ送球。このボールがランナーの肩に当たり、まさかのセーフ。・・・こんなプレー見たことある?? うちのキャッチャ-に限って…。私もこのチームになっても初めての出来事でしたし、今まで監督をしていた自チームで見たことはありません。これにより、2-1と点差を詰められてしまいます。何とか突き放したい本校は、4回裏にもチャンスを作り出します。しかし、後一歩及ばず、無得点に終わります。

 

そして迎えた5回表。1アウトから四球で出塁を許すと、次のバッターは右中間へ。続くバッターにもライト前に運ばれ、1アウト満塁。続く6番の打球はセンターへ。ランナーはタッチアップを切れず、2アウト満塁。この日、このチームはどれだけついているんだと思いました。しかし次のバッターの打球をセカンドが捕るも内野安打となり、同点に追い付かれます。そして8番には2点タイムリーを打たれ、4-2と逆転を許します。逆転された本校はすぐさま反撃に転じます。先頭の3年のレフトが、ヒットで出塁。後続は断たれますが、バッテリーエラーで1点を返し、4-3と食らいつきます。

 

そして迎えた最終回。1アウトから左中間に2ベースを浴びます。続くバッターのサードゴロをキャプテンが投げられず1アウト1,3塁。続くバッターのセカンドゴロを3年のセカンドがタイムリーエラー。これで5-3とされます。2アウトまで漕ぎ着けるも、最後の最後でレフトゴロを3年のレフトが後逸…。一気に2点が入り、7-3とされてしまいます。最後は本校にもさすがに跳ね返す余力はありませんでした。最後のバッターは本校の4番。この4番にこのチームはどれだけ助けられてきたか、どれだけ奇跡を起こしてきたか。しかし、この日奇跡は起きませんでした。ショートゴロでゲームセット。これで3年の引退が確定しました。

 

この記事をここまで読むと、もしかしたら、3年生の保護者は気分が良くないかも知れません。正直、この試合、無観客ですのでzoomでの中継となりましたが、私が怒鳴ったり、叱責したりする声が多く聞こえたりしたかも知れません。その通りです。この試合、このチームで115試合をこなしてきましたが、ここまで3年に声をあげたのは初めてでした。それは3年が嫌いとか好きとか言うのではなく、3年がいつも通りのプレーが出来ていなかったからです。この代は本当に本番に強く、公式戦でエラーなどがあまりでない代でした。しかし、この試合のエラーはその全てが3年生…。ここまでボロボロなのは初めてでした。正直、初回のエラーでこの試合は終わったと思いました。それでも何とか無失点で切り抜け、先制をしたにも関わらず、振り逃げで失点する、ファーストがエラー、キャプテンもエラー、そしてセカンド、レフトまで…。正直言葉を失いました。学校に帰ってきてから気持ちを落ち着けて3年と話して、事情が分かりました。この日、3年は絶対勝って伝説を残す、と意気込んでいたそうです。その気持ちが強くなりすぎて、身体が硬直し、それが連鎖してしまった、と。とりあえずいつも通りではなかった訳です。それに監督である私は気づけなかった。115試合も共にいたのに。思えば、このチームの調子も昇り調子とは言えませんでした。7月29日には青梅総合に負け、8月1日には白鵬女子に勝つものの、薄氷の勝利。今から思い返せば、3年の緊張はここから始まっていたのかも知れません。3年生は一生懸命やりました。そしてソフトボールの女神はそれも見ていてくれました。だからこそ、ここまでボロボロでも試合になったんです。負けたのは間違いなく、3年のメンタルの異常に気づけなかった、監督である私の責任です。こんなに素晴らしい素質を持った部員たちの最後の試合がこんな形で終わることになり、その重さにしばらくは立ち直ることすら出来ませんでした。

 

思えば、この代のスタートは、ガス橋のグラウンド設営から始まりました。私学選手権特別大会で敗退した本校は私学選手権決勝が行われるガス橋のグラウンド設営を手伝うことに。直前に負けた相手、日体大荏原と共に私学選手権決勝トーナメントを運営しました。当日は燃えるような暑さ。そんな中、部員たちは一生懸命グランドを作ったり、ボールガールをやったり、東奔西走しました。新チーム最初の練習試合は都立葛飾商業と。先発はキャプテン。途中までは気合いで投げ込みますが、終盤にひっくり返され、敗戦。続く試合は2年の背番号1にマウンドを託します。その背番号1が投げてくと、あれよあれよとチームは勝利。コロナ禍で八支部大会は中止が決定、9月の私学新人戦に向けて形が出来上がりつつありました。迎えた私学新人戦はベスト8がけで東海大菅生と対戦。この代が初めて菅生と対戦したのはこの時です。先発は2年の背番号1。東京4強の常連、東海大菅生です。あっさりと2点を先制されます。しかし、無欲で挑んだこの試合、本校はすぐさま3点を奪い、逆転に成功します。いけるのではないか、と思ったその瞬間。2年の背番号1は勝利を意識したのか、四球を連発。こんなチャンスをミスミス菅生が逃すはずがありません。5点を奪われ、逆転負けを喫します。この試合からこのチームの意識は大きく変わりました。「もしかしたら自分たちは上位に食い込めるのではないか」という思いが、確信に変わりつつあったように思います。そのまま練習試合も連勝街道まっしぐら。高体連秋季支部予選も順調に勝ち進み、都大会へ。ここで奇跡を起こします。1回戦で都立第一商業を退けると、2回戦のベスト8がけで、当時東京私学4位の日体大桜華に勝ってしまいます。桜華に勝ったのも練習試合も含めて初めてのこと。そして高体連でベスト8に入るのも創部史上初の出来事でした。この試合、今でも思い出せるほどの大熱戦でした。4-2でリードしてから最終回に追いつかれるという最悪の展開。しかも代打に同点2ランホームランを浴びたのです。そこからタイブレーカーに入り、逆転勝ち。本当にこの日は凄かったですね。その後ベスト4を賭け、都立小平西と対戦。途中までは競り合うも、最後は突き放されてしまいました。この時のチーム状態は最高潮。素晴らしい大会となりました。このチームの快進撃はまだまだ止まりません。秋季大会が終われば基本的にはその年の公式戦は終了です。ただ、この大会の結果次第で上位大会(全国選抜、全国私学、東日本)の出場校が変更される可能性が出て来て、本校は東日本大会決定戦をすることに。残ったのは東京立正、錦城、日大豊山女子、本校の4チーム。このうち1チームが東日本大会へ出場出来ることになりました。本校のそのイスを賭け、3校と戦いました。代理抽選で1dayトーナメントの相手が決まり、本校は1回戦、錦城高校と対戦。10-0でコールド勝ちをします。最後のイスを賭けて対戦したのは東京立正高校。勝てば東日本という大きな試合。結果はタイブレーカーの末、1-0で負けてしまいました。部員達はうなだれていましたが、4強以外で上位大会に行けたのは東京立正のみ。うちはこの年、東京都第6位と言っても過言ではありません。本当に良い秋を過ごさせていた出来ました。

ただ、これで満足してはいられません。今以上に努力しなければ来春には本校を倒そうと上位校達が目の色を変えてやってくるに違いありません。緊急事態宣言が明けたこの時期にたくさん試合をこなしました。12月には世田谷ウインターカップの実施を考えました。しかし直前になり、感染者の増大に伴いやむなく中止に。ここからまた新型コロナウイルスが部員たちの活動を制限し始めます。12月末には感染者が爆発的に増加し、1月方再度緊急事態宣言に。部活動は原則禁止となりました。また部活の出来ない日々。せっかく積み上げた練習の成果を披露することも維持することも難しくなりました。

 

そして本校の卒業式が終わった3月10日にようやく試合が出来ることに。ここからはまたしても練習試合の日々に。勝ったり負けたりを繰り返しながら、レギュラーを変えたり、ピッチャーを変えたり、打順を組み変えたり、本当に試行錯誤の日々でした。埼玉にも行きました。千葉にも行きました。神奈川にも行きました。本当に試合が出来るところへ、強い相手を求めて試合を重ねました。そして迎えた今年4月の春季都大会。くじ運の悪い私は待たしても東海大菅生のヤマを引き当てました。1回戦は鷗友学園女子。試合には勝ちましたが、ここで大きなミスが。本来であれば試合に出られず不戦敗となってもおかしくないミス。相手校の計らいで大会は勝ち進めましたが、大きな気の緩みがでた大会となってしまいました。もちろん、必勝を期した東海大菅生戦は話にならず、敗退。自分たちの実力を出す出さない以前の結果となってしまいました。続く6月にはインターハイ予選都大会が。ここでも3度目の正直、と言うのか、またしても東海大菅生のヤマに。1回戦は都立青梅総合。本校は余り対戦したことのない相手。緊張して臨むも、何とか勝つことが出来ました。そして都立南平にも勝ちベスト16に。迎えた6月13日。東海大菅生と3度目の対戦。これで勝てなければ一生勝てないと臨んだこの試合。部員たちは必死に菅生と向き合っていました。2回に先制を許すも、しぶとく粘りに粘り、4回までは1-0で進みます。最後の最後、5回表に緊張の糸が切れたかのように、6失点。一気にコールドにされてしまいました。正直、菅生は強かったです。本当に強い。改めて4強のすごさを実感しました。

 

そして最後、3年の集大成となる、私学選手権に向けてラストスパートをかけました。ただこの磁気も新型コロナウイルスの感染者は増大の一途を辿り、なかなか自由な活動が出来ませんでした。そんな中、部員たちは必死に時間をやりくりしながら、練習をしていました。迎えた私学選手権一次トーナメント。決勝トーナメント決定戦では学習院女子と対戦しました。練習試合では大勝している相手でした。しかし試合が始まると様子は一変。初回に先制したものの、追加点が奪えない…。まさに負けパターン。しかし、ここで部員たちは焦らずに追加点を奪い、引き離し、7-0でコールド勝ち。本当に強くなりました。

 

こう1年間を振り返って見ると、やはりこの代にも新型コロナウイルスの影響は色濃く出ていたのだな、と感じました。恒例の夏合宿も春季遠征も出来ない、文化祭もなければ、親御さんの観戦も出来ない・・・。いつもとは違う日常の中で必死に過ごしてきたのだと思います。特にこの代は人数が少なく、新チームになるときも不安がいっぱいでした。理由は3年が1番分かっていると思います。君らが下級生の時の出来事が大きく尾を引いていました。でも、あの出来事もコロナ禍でなければきっと解決していたと思います。もちろん、最後には解決していたしね。君たちはその失敗を繰り返してはならないと、6人でよく話し合ってたんだと思います。部活動を運営する中で君らの代で困ったことはほとんどありませんでした。ただ、下級生が多く、しかも経験者揃い。レギュラー争いは熾烈を極めました。強豪校なら当たり前のことでしょうが、本校にとっては未曾有の出来事。3年生は本当に苦しかったと思います。でも誰一人として弱音を吐かず、頑張り抜きました。私はきっとこの代でなかったら、この状況でやり抜けなかったと思います。それは競技力は高かったからとか技術力が抜きんでていたから、とかじゃない。人間性です。「このチームを強くするために。下級生が伸び伸びできるために。」このフォア・ザ・チームの精神を3年の6人が全員持っていたからだし、その重要性を身に染みて分かったからだと思います。

 

 

 

 

 

挫折と飛躍を繰り返し、常に前面に立ち、周りを引っ張り続けたサードのキャプテン。

 

君はソフトボール体験会に2度も参加してくれました。なんだか分からないけど、私は入学する気がしていました。案の定、入学してくれた君は、あっという間にサードのポジションに。そこからサードは君の居場所になりました。2年になる前から君はピッチングを始めました。理由は簡単。この代にはピッチャーがいなかったから。君は小さい身体を大きく使いながら、一生懸命練習していました。2年になり、君はキャプテンになりました。私も悩まなかったわけではありません。ですが、君は私が想像していたよりも遙かに素晴らしいキャプテンになりました。キャプテンは何事も決断が求められます。君は躊躇なく正しい道を選択し続けていました。本当は凄く苦しかったのではないかな? 新チーム当初はピッチャーとして登板もエースの座は後輩に。守り続けていたサードの座も後輩に奪われました。きっと心中は穏やかではなかったはずです。でも君は腐らなかったし、休んだりもしなかった。チームを強くするためにみんなを引っ張り続けた。6月のインターハイ予選で後輩がミスを連発。満を持して君が出て来ました。君は後輩を押しのけることなく、その後もアドバイスをし続けました。エースにもそう。マウンドを譲ってもアドバイスは忘れない。他の初心者のこともしっかり見ていて時には厳しく、時には優しく接していました。ここまでチームを俯瞰して見れたキャプテンはそうはいません。歴代3本の指に入る名キャプテンであるとは疑いようがありません。キャプテンになってから、一時期本当に不安定なときがありましたね。でも立ち直ってくれて本当に良かった。そして君の良いところがこのソフトボール部で発揮されて本当に良かった。3年間お疲れ様、これからは勉強頑張るんだよ-。

 

 

 

 

誰よりも優しく、誰よりもソフトボールを知っていたレフトの副キャプテン。

 

君も体験会から本校のソフトボール部に入部してくれました。君はお姉ちゃんも本校の出身。私はソフトボール部に最初から入るつもりだったのだと勝手に思っていました。でも引退の時の色紙に最初は迷っていたと書かれていてビックリ。そんな悩みを抱えたいたんだね。君は1年生の時から試合に出続けていました。先輩がいたときは1番バッター。決して足は速くないけど笑、バッティングは素晴らしかった。大体どの試合でもヒット1本は打ってくるバッター。足は速くないけど、キャッチャー出身と言うこともあり、ランナーでも次の塁への意識が他の選手とは一段違いました。決して驕らず、謙虚で、周りに気が遣える。勉強もしっかりこなす、まさに理想的な選手でした。3年になり、3番を任されるように。ただ、君は2年の後半からバッティングの調子が安定しなくなってきてしまいました。時には感情的になることも。私も必死にアドバイスを送りました。守備では超高校級のキャッチャーがいたため、レフトへ。最初こそ、良く落球していましたが、徐々にそのセンスを開花させ、不動のレフトとなりました。最後の引退試合は、私には下級生の頃のバッティングに戻ったように見えました。相手の速球を打ち返すシェアなバッティング。私は忘れることがないでしょう。本校の今の外野陣を育てたのは間違いなく君です。本当にありがとう。一緒にソフトボールが楽しかったよ。

 

 

 

 

 

1年の時に見た初心者の先輩に憧れ、がむしゃらに努力したセカンドの副キャプテン。

 

君は初心者でした。中学時代はソフトテニス部。入学してから部活の仮入部から入部してくれました。君が入部した当時、3年生にも初心者が4名いました。この代も少なかったのですが、この代こそが、淑徳を破った伝説の代。その淑徳を破った大きな要因となったのが初心者の先輩でした。君はそんな先輩になりたいと憧れ、練習に励みました。自分たちの代になって最初こそセカンドを任されますが、エラーをして降格。その後はDPとして試合に出ることが多くなりました。でも君は挫けず、腐らず、懸命に練習を重ねました。それでもミスは出て、チャンスでも打てず、何度となく君は涙を流していました。そんな中、私は君を副キャプテンに指名しました。理由は簡単。本校ソフトボール部の象徴となって欲しかったから。ベスト8に入ったりするようになると、所詮初心者は試合に出られないんですよね、とか、特に内野は経験者だけでしょ。と思われたくなかったからです。駒澤は初心者でも頑張れば内野も守れるし、クリーンナップだって打てる。君にはそれを体現して欲しかった。君はその期待を知ってか知らずか、努力を重ね、ベスト8を決めた日体大桜華戦、ベスト4を賭けた都立小平西戦でもヒットを放ち、活躍してくれました。ただその後も苦労の連続でしたね。1,3塁の練習や、ランナーを置いての練習ではその都度的確な判断を求められ、苦労したと思います。でも君は諦めなかったし、辞めなかった。この姿勢はきっと後輩達に引き継がれています。君の持ち前の頭脳と体力は本当に素晴らしかった。君の頑張りは誰かと比べるためのものではありません。君が君だけが知っていればいいんです。それが将来君を必ず助けてくれます。私はハッキリ言えます。君の努力は並大抵のものではない。誰にでも出来る簡単なことじゃなかった。それをやり切った君は本当に素晴らしいです。3年間お疲れ様。続けてくれてありがとう。これからは勉強だね。気を抜くなよー。

 

 

強打、強肩、俊足。まさにソフトボールをするために生まれてきたかのようなキャッチャー。

 

君は体験会に参加してくれました。その時からものすごい肩をしているな、と思っていましたが、謙遜していましたね。入部してその実力はあっとい間に開花。打てば柵越えホームラン。投げれば盗塁アウト。キャッチングも上手で欠点を探すのが難しいほど。1年生の頃からレギュラーとして試合に出ていましたね。そんな君でしたが、性格はいたって優しく、周りに気を遣えるタイプ。自分が打てるから、投げられるから、と言って天狗にもならない優しい子でした。自分たちの代になり4番を任されるように。2年の時より、3年になってからの方が伸び悩んでしまったように思います。2年の時は面白いようにホームランをかっ飛ばしていましたが、3年からは好不調の波が大きくなり、不安定に。それでも君は真面目だから努力を重ね、調子を戻すのに必死でした。キャッチャーとしても言うことはありませんでした。リード、キャッチング、スローイング。どれを取っても一級品。ですが、それが仇となり失点したことも。大学のソフトボール部からお誘いが来たのは君が初めてでした。引退試合では信じられないようなミスが続きました。きっと緊張していたんだね。そんな繊細な感情に気付かず申し訳無かったです。君はもっと上のレベルでソフトボールが出来る選手でした。でもそんな君と一緒にソフトボールが出来て本当に楽しかった。最後の試合、君は納得の行くプレーが出来ましたか?君が少しでも満足できたなら、私は安心です。3年間、キャッチャーを守り続けてくれてありがとう。これからは勉強頑張れよー。

 

 

 

 

 

 

引っ込み思案で、マイナス思考。でも歯を食いしばって守り続けたファースト。

 

君は経験者と言うことで入部してくれました。双子で妹の方が上手だとは聞いていました。1年の時から余り目立たず黙々と部活動をこなしていました。自分たちの代となり、君はファーストを任されるよう左行きの君は、左利きの君にはファーストは適任でした。ですが、そこからは地獄の日々。ファーストは捕球出来なければ永遠にチェンジになりません。大事なところで、ワンバウンドをこぼしたり、よけてしまったり…。何度怒られたことでしょう。フライが捕れなくて、ゴロをよけたりして交代させられたこともありました。君はその都度練習し、何度も何度も練習し、克服しようとしていました。引退の時の色紙に「試合前は恐くてご飯も喉を通らなかった」と書いてありました。本当に恐かったんだと思いました。でも、そんな地獄の日々が君を強く、上手にしてくれました。引退間近の君は2年の当初の君とは別人でした。あれだけ打てなかったバッティングも引退間近では強い当たりを連発。先発で使うかどうか、こちらを悩ませるような存在にまでなりました。引退試合、君は確かにエラーをした。でも、今までの君じゃなかったよ。エラーしたけど、目は諦めてなかった。取り返すんだという強い気持ちが見えました。君にとってはソフトボール部の3年間は苦しみでしか無かったかも知れない。でもその苦しみは君を大きく成長させました。自信を持って。君はそんじょそこいらの選手よりずっと使えるファーストになったんだから。君の頑張りを3年間見てきた私には分かります。3年間、本当にお疲れ様。勉強頑張れよー!

 

 

 

初心者でも絶対諦めない、最後の最後までバットを振り続け、声援を送り続けたDP。

 

君は初心者で入部してくれました。本校で2人目の吹奏楽部出身。君は真面目で本当に真面目でよく努力していました。でも一度だけ、部活を辞めたいと、相談に来たことがありましたね。君は散々悩んだけど、続けることを選択しました。その時の言葉が今も私の脳裏に浮かびます。「タメ(同級生)が最高すぎて辞められません。」良い仲間を持ったな、と思いましたし、君もしっかり答えられる子なんだと思いました。君は自分たちの代になってから、人が変わったように練習に熱が入るようになりました。自分が引っ張って行かなくてはいけない、と言う自覚が感じられました。新チーム当初はなかなか試合に出られませんでしたが代打で出て、決勝のタイムリーを打つことが出来ました。これはたまたまではありません。絶対に偶然ではありません。日々君が努力してたから、だからこそ打てたのです。その後は下級生との壮絶なレギュラー争いの中で、君は控えに回ることが多くなりました。でも、君は不平不満を漏らしたり、手を抜いたりすることはしなかった。最後の最後まで出番を待ち、そして声援を送り続けていました。試合に出ることより、こうした姿勢を保ち続けることの方がよっぽど大変です。それこそ、そうした気持ちがなければ、絶対に続きません。引退試合、君を代打で使うことすら出来ませんでした。君にとって3年間のソフトボール生活はどうだったのか、凄く不安でした。でも君が最後に送ってくれた「後悔は何1つない」という言葉に救われた気がしました。3年間本当にお疲れ様。勉強、手を抜かないで頑張ってねー。

 

 

そして3年生の保護者の皆様、大変お世話になりました。この場をお借りしまして心より感謝申し上げます。新型コロナウイルスの影響で文化祭はおろか、夏合宿、春季遠征も中止。修学旅行も延期。そして肝心の大会も無観客試合…。高体連ベスト8を決めた試合、是非とも皆さんと共に喜びを分かち合いたかったです。今までの日常ならば、親御さんとの懇親会も出来ていたはずでしたが、それも叶わず、本当に我慢ばかりさせてしまいました。コロナ禍でもなんとか練習試合をしようと奔走した結果、千葉や埼玉、そして神奈川と本当に色々なところまで連れ回してしまいました。こうした活動に御理解頂き、本当に感謝致します。最後の引退試合は親御さんにとっては歯がゆい結果になってしまったかも知れません。本来の力を出せば、ベスト8はおろか、その上も狙えたと、今でも確信しています。でも、それが叶わなかったのは部員たちのせいではありません。私が緊張しているあの子たちに気づけなかったからです。この悔しさは必ず後輩達に還元します。駒澤大学高校ソフトボール部をもっと強くします。素晴らしい部員たちを育ててくださり、本校に入学させていただき、本当に感謝します。宝物のような3年間でした。今後とも駒澤大学高等学校ソフトボール部を宜しくお願い致します。ありがとうございました。