オークランドブリッジは絵になる。毎回携帯カメラを構えてしまう。危険である。
残念ながらいつも夜明け直前なので似たような画しか撮れない。
夕暮れ時にシティー方面(逆コース)で撮ってみたいものだ。
旧い友人と連絡がついた。フェイスブックで旧交が復活したのはこれで二人目。
彼女の第一声は「けこちゃん!又出会えたね」。 私は「おおおー」。
第二声が「時が来たんや」。私は「せや!」。
5歳年長の彼女らしい邂逅の挨拶に応える私は軽佻浮薄。
「旧友」と言っても「級友」といった程度の縁ではない。
出会った当時の私は13歳、それから結婚、子育て、ニュージーランド移住までを知る人。
私の人生の遠い過去には彼女の足跡がくっきり残っている。
そんな彼女に再会できたのはまさしく「時が来た」のだろう。
この人生で出会う人、出会った人は全て自分を映す「鏡.」と考えている。
美しいものも醜いものもおしなべて自分自身の投影に違いない。
その鏡に時を隔ててどんな姿が映るのか知りたいと思った。
「変わらないねえ」。は決して誉め言葉ではない。この長い年月は何だったんだ?
お互いにLINE登録を済ませた後の会話で彼女は私の「声」が変わったと言う。
年齢を経れば声も変わるだろう。声帯も歳をとる。
それを認めつつ、私は自分の声のトーンにも変化があったと思いたがっている。
「変わった」自分、「学んだ」自分、「進歩した」自分を探すのに血眼なのだ。
年長の彼女に向かって私は言いたい放題である。
「なんでやねん!」、「アカンわあ」、「やめてー!」。彼女はころころと笑っている。
世間の誰から見ても彼女が「アカン」理由は全くない。なのに笑っている。
私の毒舌を楽しんでいる風でもある。年長者の余裕の手のひらの上に私はいる。
旧交が復活したからには ”キープマイアイズオンユー” 私は貴方を見ています。
なにが見られるか、見せられるかはお互い次第。
過去の歴史を土台にしてつかず離れずお互いを見て行けたら幸いだ。
なにしろ「人は己を映す鏡」なのだから。
