文字が大きくて読みやすい。※大きさを変えられる

A5より少し大きいが薄くて軽いタブレット。

風呂でも読める。

暗い室内でも読める。

1975年に刊行された「星と祭」は、文庫本よりキンドルで読むのに適していた。

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キンドルを使い始めたのは2020年12月。

脊椎間狭窄の手術で入院するのを機に、紙の本の代わりに購入した。

※その時のブログにリンクします

だが、それ以降キンドルで読んだ本は十冊ない。

 

どうしてそうなってしまったのだろう。

「本」の本体というのは文章そのものであるなら、

文章を効率的に・読みやすく表示してくれる電子書籍でじゅうぶんなのではないか。

 

紙の本でなければならないのは、絵本と画集だ。

電子書籍のディスプレイは製品によって微妙に色がちがう。

作家がこだわった色が違ってしまうのでは「本」として不完全だ。

※展覧会の図録がデジタルで販売されないのもそういった理由だろう

絵本は大きさも重要。

たとえば「ピーターラビット」のシリーズはあの小ささでなくてはならない。

迷路の本や「ウォーリーをさがせ」はある程度の大きさがないと「寄って見る」ことができない。

デジタルのズームとはちがうと思う。

 

だが、「本」の価値が文章だけであるならば

今回の「星と祭」のようにでデジタルで読むことでじゅうぶんである。

少なくとも今回の小松にとってはそうだった。

 

本を紙で刊行する人にはこだわりがあって、装丁作家という人もいる。

この「星と祭」にも立派な装丁版がある。

だがそれは、絵本のように作家本体の作品とは別のものだと考える。

 

結論は★使い分ければよい。

絵本などの「紙でなければならない本」と、

文章そのものだけ「デジタルで読めばよい本」と。

 

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三年半前に購入したkindleキンドルの動作が遅いと感じたのは、

端末を買い換えればよい。

蔵書もクラウドかHDDに保存しておく時代なのかもしれない。

音楽がいちはやくそういう時代になったように、

必要な時に手元の端末にダウンロードして持ち歩く。

そうすればなくすことを防げる。

人に貸すのがむずかしくなるけれど。

 

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「星と祭り」という作品について。

今回、「古い文体だ」と感じた。

二三十年前、井上靖の作品をたくさん読んでいた時にはそう思わなかった。

作家個人の個性というより

いつのまにか時代が移り変わっていたということなのだろう。

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「星と祭り」は、この三年に何度も《手造の旅》で訪れた近江長浜ゆかりの作品である。

2019年にはじめて長浜を訪れた時から、

長浜が登場するところだけを拾い読みしていたが、やっと通読した。

 

娘を琵琶湖のボート転覆で亡くした父親が

その事実に対峙してゆく様を

ヒマラヤと琵琶湖という二か所を舞台に展開してゆく。

 

琵琶湖の周りに何百年も前から受け継がれている

十一面観音をはじめとする仏像たちは

肉親を亡くした人々の気持ちを、たしかにあんな風に受け止めてきたのだろう。

旅で出会う仏像の見え方を変えてくれる一冊である。

 

ヒマラヤの情景描写は、

実際に訪れた人の卓越した言語選択で表現されている。

2006年に同じネパールのジョムソンからマルファ村を訪れた時を思い出した。

※小松がジョムソンを訪れた時のブログにリンクします

※「星と祭り」の中で出てくるナムチェとはちがう場所です