トゥールの公園でバゲットサンドをかじっていた。

ふと目の前の立像が気になった↓

ミッシェル・コロンブ(1430-1512)と刻まれている。

検索してみた。ぱっと見女性のようだったが、れっきとした男性彫刻家。

なるほど、よくみると右手に持っているのは木槌、左手にノミだ。

 

フランス王シャルル八世の夭折した子供たちの墓を彫刻していた。

その彫刻が、これから行こうとしているトゥールのカテドラルにあるようだ。

彼の出身地は、今朝小松が出発したブールジェ。

これはめぐりあわせかもしれない。

 

カテドラルでさっそく探し当てた彼の彫刻↓

フランス王シャルル八世と妃アンヌ・ド・ブルターニュの間には四人の子供が生まれたが、ただひとり三歳まで育った二男のシャルル・オランドも1492年に亡くなった。同じタイミングで、生後26日で亡くなった弟のシャルルと二人の墓である。

後継者を失くした王の嘆きは深かっただろう。

その姿を刻ませた墓は、いちばん信頼できる彫刻家に依頼したに違いない。

それが、公園で見かけた彫像の主ミッシェル・コロンブだったのか。

 

シャルル八世は王子たちが没した二年後の1494年にイタリアへ軍事遠征を行った。

二年に及ぶイタリア滞在は政治的には失敗におわったが、文化的にはフランスにルネサンスをもたらしたとされる。当時のイタリアはダ・ヴィンチもミケランジェロも、ラファエロも、最盛期でばりばり活躍していたのである。

 

ルイ十三世はフィレンツェ近くのフィエーゾレ出身の彫刻家をリクルートしてフランスへ同行させた。

ジローラモ・ダ・フィエーゾレというその人物が、この墓碑の台座部分の作者だった↓

たしかに、上部と彫刻の風合いがちがっている。

まごうことなき、ルネサンスの装飾だ↓それがミッシェル・コロンブの刻んだ上部の人物とよく調和している↓

ミッシェル・コロンブは1430年生まれだからダ・ヴィンチより二十四歳年長。

イタリアから王が連れてきたジローラモと会った時にはもう六十歳をすぎている。

しかし、彼の代表作と言われるものは晩年に集中している。

最新のルネサンス彫刻家との出会いがミッシェルを奮起させて、新しい作品の作品群を世に遺した、のではないだろうか。

 

王子たちの死後十四年した1506年に、この墓碑はトゥールの聖マルタンバジリカに安置された。

同聖堂がフランス革命で完膚なきまでに破壊され、1834年にはここカテドラルに移された。

一部が破損した跡はあるが、完全に壊されなくて幸いだった。

修復が終わって一般公開されるようになったのは2010年代になってからである。

**追記

さらにミッシェル・コロンブを調べていて、一歳違いの弟があの美術史に輝く「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」を描いたと知った。

え?あの作品はランブール兄弟のものだと記憶していたのだが・・・。

さらにさらに調べてみると、ランブール兄弟は三人とも(疫病か何かで?)同じ1416年の春に突然亡くなり、「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」は未完のまま残されてしまっていた。オーダー主のベリー公ジャン一世も同年秋には没しているので、完成を命じるべき人もほとんど同時にいなくなっていたのである。

経緯はわからないが、七十年後にそれを完成させたのがベリー公の本拠地であるブールジェ出身のジャン・コロンブだった。

ただ、ジャン・コロンブの腕前はランブール兄弟と比べると明らかに劣っている。素人目にも「あ、ここは違うんだ」と判別できてしまうほどに。

ジャン・コロンブも彼だけの手になる作品でならば評価は低くないのだが、ランブール兄弟の遺したものを完成させる仕事を受けてしまったのが、幸運なのか・不運なのか。