OSK日本歌劇団「EXPO2025!! REVUE OSAKA」観劇でした。日舞「菊秋萬白蘭盛宮(あきはよろずのはなのにぎわい)」と、洋舞「METROPOLIS」のレビューです。 


  今朝までレビューと戦争、娯楽にする事で大事な事を稀薄化してしまう恐れについて考えていただけに、このレビューで沖縄が描写されると知った時は恐れたものですが。


  沖縄が主題の作品ではない中での一景のものなので、今回はこれが女性歌劇におけるレビューの今後の深まりに繋がる一例になる事を願うに留まりました。 


  ユートピア扱いにする静と、大火と渦巻く生命とを描く動。


  過去を薄めすぎたり、娯楽になりすぎるのを描写の向こうの主張がそうはさせていない。

 ように感じました。


  まだ出来る事はあると思いますが。 


  大阪には、かつて沖縄から移り住まざるを得なかった方々がいらっしゃた事も思い出しました。


 まずはこの景について感じた事だけを書きました




(9月23日追記

 静と動の景と書きましたが、使われた曲についてこんな記事をそれぞれ見つけました。


・「鳩間節」について書かれたサイトの記事 

『鳩間節』 〜今に伝わる歌と踊り 琉球の原風景を訪ねる旅〜



・「魂をコンドルにのせて」について書かれたサイトの記事  

ディアマンテスの「魂をコンドルにのせて」 


 一見、全く違う二つは、その地で人が生きるとは何かを表す一対だった、と考える事も出来るのでは、とも感じるようになりました。





 大阪は難波、松竹座で、OSK日本歌劇団の「レビュー春のおどり」2025年公演を観ました。
 日舞の「翔~Fly High~」、洋舞の「The Legendary!」。
 トップスター、翼和希さんの就任を記念した公演でもあります。

 翼和希さんには変じ続ける架空の異形になって欲しいと感じた公演でした。

 OSKのトップスターは、何かの化身であって欲しいという、私の我が侭からの願いでもありますが。
 日舞の主題歌で「己」を語るように歌う事や、洋舞での魅惑的な男役を演じる事に、生々しさ、気恥ずかしさ、照れ、を感じたのです。
 もっとも、これは単純に照れてる私の問題かもしれません。

 全面的に翼和希さんのトップスター就任お祭りとしての今回の春のおどりですが、千咲えみさんの方がトップとしては先輩、いや男役と娘役とではトップスターといっても違いがあるのでしょうし、そこは部外者の私には分からないのですが、翼和希さんと並び立つのが千咲えみさんである事は、互いに水を得た魚のような輝きに見えます。

 トップスターであった楊琳さんと舞美りらさんと、同じトップスターとして並び立っていた千咲えみさん、そして三人を支える立ち位置の男役の一人でした翼和希さん、どのような学びをもってそれぞれにあの頃もまた輝いていたのかを前提に考えないといけないような思いがします。

 様々な景で恋をしてもいいし、友達でもいいし、夕日の川原で強敵と書いてライバルと読んでもいい。擬音だとチャキッとしている。不思議な一対です。



 日舞はもっと景、そして全体の流れが濃くなっていくのではと思いました。レビューだけに全体の流れといっても一本の筋のようなものはない訳ですが、日舞の暗転は余韻を暗示する要素が強いだけに、次の景まで待たせる時間であってはならない。

 洋舞は男と女が惹かれ合い~みたいな雰囲気の景ばかり観た照れもあったかもしれません。いっつもそういうお話や舞台ばかりなのに何故今頃照れる。

 気付いたら白藤麗華さんをひたすら追っていました。
 そして鈴といいスカートといい、目に入る振り方、さばき方をされる城月れいさん。
 スカートさばきといえば紫咲心那さん、

 そして朝香櫻子さま、桐生麻耶さんが舞台に立つ空間にいた事に感謝しました。一心に舞台に捧げて来た者の持つ何かを。

 実は三階席でしたので、花道もすっぽんも、客席降りも見えず。でも、劇団員の皆様が三階席にも度々気配りされていたのは感じていました、皆様ありがとうございます。きっとご出演の皆様全員と目が合いました! (前向き)

 以降の日程も、そして夏の新橋演舞場でも、踊り歌う幸福をもっともっと感じて欲しい、と願い、松竹座を後にしました。

 

 


 

(この記事は舞台「マスタークラス」の内容に触れています)



先日は大阪はサンケイホールブリーゼにて、舞台「マスタークラス」観劇でした。歌手マリア・カラスの、後年、音楽院で行った公開授業、マスタークラスに、彼女の音楽と人生とが組み込まれた作品です。

演技のもたらすぴんと張った空気、身体、それをもって鑑賞しました。



実在の著名な人物を演じる事の困難は、演じるとは同一化でも物真似でも降霊術でもないから。

妙な事に、彼女にまつわるいくつもの逸話、何より歌声、から、観る私はマリア・カラスという人もほんの少しは知っているという勘違いをもって観ています。

更に個人的にこの作品への解釈で厄介となっているのは、私が望海風斗さんの一ファンであり、かの人に心酔している部分がないと言えば嘘になる点です。



私はマリア・カラスに逢い、知ったように錯覚しますが。

私の観る舞台にいたのは望海風斗さんを初めとする演者の皆さんであり、ここはマスタークラスの聴講席ではない。

その演技の卓越さ、観る者の両の肩に舞い降りたでしょう密度、それらをつつき回したい訳ではない。
なのに同一視を助長してしまい、全てを肯定してしまうのに対する心の警鐘が鳴ったのが、終わって大分、それこそ翌日の鐘が鳴ったしばらく後の事でした。

とても怖い事でした。



生徒たち。

最初の生徒はその素直さですくすくと伸びて欲しい。
二人目の生徒は贈られた言葉のように、暖かに、今の自分のままであって欲しい。
三人目(あ、正確にはこちらが二人目か)は、いつか目が醒める事があってもなくても、その強さと相性のいい先生に出会えるといい。



マリアが受けた仕打ちの告白を前にして、鑑賞後でずたずたに引きちぎりたくなった(すみません)アリーの写真が、あらかじめちゃんと小間切れで写されていたのは、観ていたこちらの気持ちをやはり誘導されていたのを実感したのも併せた、複雑な苦さを覚えました。
望海さんの演じるアリーはマリアの記憶のアリーでしょうから彼女なりの美化が加えられていて、でもそれを差し引いても当人にも魅力があるのだろうな、と感じたり、オペラに対する愛情と無理解とで全くの正反対なのに「観客が求めるものは」と語る所など、何か互いの琴線に響く恋人同士だった事は察せられました。
でもやっぱりアリー許せん。



一時の授業を伴にした栄誉を誇らしくあった伴奏者の、結局は今の一時にしか添えないしましてや彼女の孤独には寄り添えない哀しみをもってマリアを見送る表情が忘れられません。



結局、私などと違い、授業に支配されていない視点を持っていたのは、マリアに「芸術を必要としていない存在」と言われ、「親方はいない」と言っていた、手伝いに度々現れた道具係の男だけかもしれません。支配されていないもの、神の視点を持つ存在。キリストは大工の息子ですから。