昭和38(1963)年6月「高校三年生」を引っ提げて彗星の如く現れ、当時の歌謡界に一大センセーションを巻き起こした舟木一夫さん。

その後も「修学旅行」「学園広場」「仲間たち」「あゝ青春の胸の血は」… など次々とヒットを出し、いわゆる<青春・学園歌謡>のブームの高まりは、ほぼまる一年余り続いていました。

 

 しかし、レコード会社やプロダクションもこの<詰襟学生服>のブームがいつまでも続くとは思えず、舟木一夫の次なる新味(境地)が求められる時期であろうと考えたと推察されます。(あくまで私見) 

おそらくはその為でもあったのでしょう、昭和39年の5月の事です。

舟木さんは担当のディレクターに伴われて、戦前~戦後の歌謡曲(流行歌)の巨匠・西條八十邸へ挨拶に赴きました。西條八十72才、舟木一夫19才の折でした。

 そこで、何の屈託もない若者・舟木一夫さんは、いきなり西條さんにこう尋ねます「先生はこの数年、ほんの数曲しか歌をお書きになってませんね。どうしてなんですか?」

対する西條さんは「それはね、仕事をしてお金を稼いでもそれを使ってくれる人がいなくなっちゃったんだよ」続けて「僕の奥さんは大変な浪費家でね。こんな大きな家を買ったり、アメリカの大きな外車を買ったり、稼いだお金をジャンジャン使ってくれたんだ。

ところが、その人が亡くなってしまい、仕事をしてもお金の使い道が無い。使わないお金をむきになって稼ぐことはないだろう」と答えたそうです。

 

 このような初対面のやり取りがあって、西條さんはこの若者の為に、いい歌を作ってやろうと思ったと伝えられています。(無論、自分の弟子である丘灯至夫さんが舟木さんに沢山のヒット曲を作っていたこともあったのでしょう)

また別角度から見たとき、日本の抒情派歌謡曲の創始者とも言える西條さんが、純愛・抒情派青春歌手たる舟木一夫にその最後を託したかったとも言えるかもしれません。

 

 西條八十さんが舟木さんの為に作った三大ヒット曲は①「花咲く乙女たち」('64)②「絶唱」('66)③「夕笛」('67)だと言われています。今回はその①についてコメントさせていただきます。

 

 ♫カトレアのように 派手な人 鈴蘭のように 愛らしく

  また忘れな草の 花に似て 気弱でさみしい 眼をした子

 ※みんなみんな どこへゆく 街に花咲く 乙女たちよ

 

 ♫あの道の角で すれちがい 高原の旅で 歌うたい

  また月夜の  銀の波の上 ならんでボートを 漕いだひと

 ※みんなみんな 今はない 街に花咲く 乙女たちよ

 

 ♫黒髪をながく なびかせて 春風のように 笑う君

  ああだれもがいつか 恋をして はなれて嫁いで ゆくひとか

 ※みんなみんな 咲いて散る 街に花咲く 乙女たちよ

              ※以下、繰り返し。  

                       曲・遠藤実

 

 この歌を初めて聴いた時は、たしかに今までの舟木さんのヒット曲と曲調が変化しているなぁという感じがしたものです。そして、さまざまに咲き誇る花たちのように美しい乙女たちを讃える歌だとばかり思っていました。

ところが年を重ねて今、改めてその歌詞を確かめてみると、決して昔思った感想のようなものではないことを知らされました。♪みんなみんな どこへゆく…  ♪みんなみんな 今はない…  ♪みんなみんな 咲いて散る…  …

 この歌、実は青年期以来の女性の若さの喪失感の悲哀美がうたわれていたんです。西條さんは、「花も乙女も、いつまでもそのままでないから余計に美しいんだよ」とおっしゃったとか。とても深い意味合いがあった訳です。

 

 西條八十の代表的な作品(流行歌)

・東京行進曲 ・侍ニッポン ・東京音頭 ・サーカスの唄 ・旅の夜風 ・悲しき子守唄 ・支那の夜 ・誰か故郷を想わざる ・若鷲の歌 ・蘇州夜曲 ・悲しき竹笛

・三百六十五夜 ・青い山脈 ・赤い靴のタンゴ ・越後獅子の唄 ・ゲイシャ・ワルツ

・この世の花 ・娘船頭さん ・王将 ・芸道一代 など多数。

 

(参考) 「西條八十」筒井清忠 著

   「青春賛歌」大倉明 著