学生時代の始めの頃は、社会的メッセージ性の強い学生運動とリンクしたような反戦フォークが、70年代に入ると、個人の内面性や市井の人々の心情や生活を歌うフォークソングへと変化していきました。
その中には、"抒情派フォーク"と呼ばれるものもありました。
社会人なりたての私などは、そちら方面の歌には興味がありませんでしたね。
ところが、時を大きく経たリタイア後に、もともと歌好きの私はいろんな歌を聴くうちに、知ったのが鈴木一平でした。彼が歌う「水鏡」は胸に刺さりました。いわゆる抒情派フォークでは、他にも大塚博堂「めぐり逢い紡いで」や、村下孝蔵「初恋」「踊子」、永井龍雲「つまさき坂」などもよく聴いたものです。
そして最近、その「水鏡」を舟木一夫さんがカバーされていることを知りました。調べると、2012年・舟木さん50周年記念のカバーアルバム(16曲)の中にありました。このアルバムの楽曲一覧を見て驚いたのが、最初の曲「明日咲くつぼみに」のことでした。てっきり舟木さんのオリジナル曲と思い込んでいましたが、実は三波春夫さんの歌だったんですね。
のちに、よくよく思い出してみると、2年程前にYouTubeで視聴した「BS日本のうた」での都はるみさんとのスペシャルステージで歌っておられました。(2012・6 神奈川・厚木市)
歌唱前に、この曲を歌うことになったエピソードも語っておられました。
♫想い出の ふるさと
想い出の 人々
明日咲くつぼみよ
今日散る花びらよ
想い出の 笑顔よ
想い出の 涙よ
昨日 今日 明日
過去 現在 未来
時は還らず 世は移りゆく
いつか別れの言葉 さようなら
想い出の あの町
想い出の あの人
明日咲くつぼみに
今日の生命を
永六輔・詞 久米大作・曲
とても、深く大きな歌です。淡々と歌いながら、人間の「生きる」ことの本質に迫り、明日への希望を繋いでいこうとする詩です。
…1996(平成8)年、暮れのことでした。
三波春夫さんは、今までにないジャンルの歌へのチャレンジとして、永六輔さんに作詞を依頼します。そして出来あがったのがこの歌でした。永さんは、三波さんに「ストレッチャーに寝てても歌える、100才になっても歌える」そんな歌にしたいので、声を張り上げない歌い方を求めました。
しかしレコーディングでは、何度歌っても従来の歌い方で、声を張り上げてしまう三波さんでした。そこで、三波春夫のプロデューサーでもある妻のゆきさんが「永さん、あの人はあの歌い方しか出来ないんです」というと、永さんは仕方なく「じゃあ、やめましょうか」となりますが、そこでゆきさんは、なんと三波のいるブースの中へ入って行き「あんた、永さんが言ってることがわからないのか!力抜けって言ったら力抜け。お前は三波春夫じゃないか!ああ、もう三波春夫はいないのか!」と怒鳴ったそうです。
妻に叱責された三波さんは、笑顔で「もう一度、お願いします」とスタッフに告げ、つぶやくような歌い方で永さんのリクエストに応えたのでした。
この時すでに三波さんは、前立腺がんの告知を受けていました。しかし、家族や近しい関係者以外には、そのことを隠し通し闘病を続けながら、最晩年迄、精力的に音楽活動を続けました。
三波さんの没後、このことを知った永さんは、三波さんにとって辛い内容になってしまったことを悔やんだと言われています。
♪時は還らず 世は移りゆく いつか別れの言葉 さようなら‥の歌詞のことでしょう。
2011(平成23)年、夏。
舟木一夫さんは、何気なく眺めていたテレビで、三波さんのこの大きな歌を知ります。
翌年に控えた歌手生活50周年記念のシングル曲にしたいと強く思ったのです。
晩年の三波春夫さんは、この曲を一度も客の前では歌っていないこともわかり、是非、歌い継いで行くべき曲だと思われたのでしょう。
舟木さんの歌声をお聴きすると、まさに永六輔さんが希んだ、声の響きだけで淡々と歌うことが実現されているように思います。
舟木さんは、この歌を自分とお客さんとの応援歌ともお考えになっているのでしょう。当然、この歌の出来た経緯もすべて理解されていたことは、言うまでもないことです。
(追記)
作曲の久米大作さんは、俳優でナレーターとしても有名だった久米明さんのご子息であり、その奥様は、大ヒット曲「異邦人」を歌った久保田早紀さんです。
♢永六輔さんの楽曲
・黒い花びら ・黄昏のビギン ・夢で逢いましょう
・上を向いて歩こう ・こんにちは赤ちゃん ・帰ろかな
・おさななじみ ・見上げてごらん夜の星を ・いい湯だな
・女ひとり ・遠くへ行きたい ・二人の銀座 その他多数。